伊賀の服部一族

 伊賀で服部といえば 忍者!と早とちりしてはいけない。家康に仕えた「槍の服部半蔵正成」が伊賀者を束ねていたのは事実だ。その父 保長が伊賀出身と言うのも事実だろう。しかしただそれだけ である。

 服部一族は諸所に分散し 分家、諸家多くある。住み着いた地名を冠している。予野の千賀地谷(ちがちだに)に住み着いた者は千賀地服部と称した。保長は千賀地服部の出身と言われている。(宗家ではなく 下の服部とよばれ百姓侍の末であったといわれている。)

                              

上野市服部に小宮神社がある。
延喜式伊賀二十五座に列せられ 伊賀二ノ宮と称せられている。 服部氏の祖神「酒の君」をお祭している。
応神天皇の時代(270年〜310年)に呉国と漢国より絹を織ったり綿糸を紡ぐ女性たちが渡ってきた。
呉国から来た人を呉服(くれは) 漢国より来た人を漢服(あやは)と呼んだ。この渡来人が所属した部署を部(とり)と 言った。ゆえに 呉服部、漢服部と書く。この部とは衣服をつかさどる者に名付けられこの先祖が酒の君で この酒の君が伊賀で領した場所を服部という。




 服部氏に三流ありという
 漢服部は平内左衛門相続し平氏          紋は 丸に横二つ切り竹矢筈
 呉服部は服部六郎時定相続し源氏         紋は 左ひとつ巴
 敢国服部は一ノ宮の神事を勤める一族で源氏  紋は八つ矢車

 また一説に「伊賀一円服部名字七流にて候」(応仁元年 1599年 米良文書)ともいう。

伊賀平内左衛門尉家長
 平知盛の家臣。壇ノ浦では冑を二領着て知盛とともに入水している。服部村に住んだので服部を称す。
 五人の子供がおり 竹野屋(荒木に住す) 宮田(丸柱に住す) 高畠(高畠に住す) 杉本(湯舟に住す) 小泉(依那具に住す)という。

服部六郎源時定(みなもとのときさだ)
 頼朝の従士 服部の産。

敢国服部
 伊賀一ノ宮と称せられる敢国神社(あえくに 又は あいくに))の古祭「くろうとう」を勤める一族は服部氏のみと
 いう古法が有る。この一族を敢国服部と呼ぶ。

藤堂采女元則
 伊賀上野城代職の藤堂采女は予野の産である。
 由緒書きには 
  源姓 保田氏 実は安田 家紋追州流 今は三角文字
  元則 幼名左十郎 また 佐助と称す 緯は吉次のち元則 実は千賀地半蔵則直の子 
 とある。

   
上の系図は郷土史家の久保文雄著 伊賀史叢考より作成してみた。久保先生も 紀州保田家と予野千賀地の関係は不明とされている。群書類従系図部には 
 則宗 
伊州名張郡四濃野城主 豊臣秀吉公に仕える 慶長十四年十二月京都に於いて卒 歳四十六 号元亨院雪貞利白居士とある。
名張郡四濃城主とあるが伊賀郡予野城主が正しい。
采女家は予野では千賀地姓を名乗っているが 明治になり保田姓に復姓している。実質的に予野の千賀地宗家は則直で終わったことになる。