平成22年度 事業計画

山の辺ハイキング 6月13日(日)
盆踊り大会(協賛) 8月15日(日)
スポレク祭(協賛) 10月10日(日)
健康づくり講演会(協賛) (10月~12月予定)

地区内ウォキング  (10月~12月予定)

 
入梅・・・心は晴れ・・・山の辺ハイキング実施
                   (
石上神宮~大神神社)(0613)

 去る613()入梅、天候が雨予報。朝630分から健康の駅長が天候状況を確認。実施と判断して連絡を各地区に行う。予定より少し早い目にバスで出発。天理・石上神宮に到着。記念写真と無事故を祈念して参拝。ここも予定より早く全員勇んで出発。この時点で雨の心配はいらない.

 比較的平坦な道を南下する。車道があれば畦道のような道をあるく。よって舗装道路もあれば地道もある。道端には綺麗な花や野菜、果実の桃や柿等が実をつけ始めている。田圃には植えた苗がある。左右を眺めながらお喋りをして進む。なかなか風情がある。溝には、進行方向左側の断層地帯から流れでる綺麗な自然水が流れている。すぐ飲めそうである。

 また、歴史の足跡がそこかしこに点在している。興味のある方にはたまらないと考える。空から喜びの涙が落ちそうなので全員の足取りが速い。天理トレイルセンターには予定より40分近く早く着いた。早いが昼食休憩を取り、1130分出発とした。午後の出発前にここでも記念写真撮影し、バスが近くで待機しているので荷物を乗せておく。身軽に行進。しかし雨が本格的に降り出した。崇神天皇陵、景行天皇陵等の脇を通過して、檜原神社前で小休止。玄賓庵前を通過。大神神社へと進む。狭井神社が見えてきた、大神神社境内に入ったので残り僅かである。本殿に到着。予定の11kmを歩いたのである。今回の行程で雨に出合ったが心の中が清々しい晴れである。明日からまた頑張れる気力を貰った。

◎コースと時間
 公民館8:30 → 石上(いそのかみ)神宮9:15 → 諸準備・参拝・記念写真9:45
     (途中便所有) (途中散策可) → 布留(ふる)目池 → 永久寺
   → 夜都伎(やとぎ)神社 → 竹之内環濠集落 → 萱生(かよう)環濠集落
   → 衾田(ふすまだ)陵 → トレイルセンター見学(雨天時昼食) 記念写真 11:35
   → 崇神天皇陵すぎて昼食(晴天時 眺望良好) 11:45頃 12:30頃発
   → (後半 散策多し) → 神籬(ひもろぎ) → 穴師坐兵主(あなせにいますひょうず)神社
   → 相撲(すもう)神社 → 檜原(ひばら)神社 → 玄賓庵(げんぴあん)
   → 狭井(さい)神社 → 大神(おおみわ)神社 参拝・記念写真 14:30頃着
   → バス出発 15:00頃 → 公民館 16:00頃着

山の辺の道ハイキング  歴史秘話  健康の駅長 H22.6.13

●布止め(布留)・布都()は同義語

左図は天理市の中心図。黒ベタの「布留」を見てもらいたい。この辺りは布留川、布留山があるように古来から「フル」と呼ばれた土地だ。その布留山に布都御魂(ふつのみたま)が祀られて、ご神体となっているのが石上神宮である。
 同社は日本最古の神社ともいわれているが、そればかりではない。神社所蔵の国宝「七支刀」は史家注目の的になっているのはご存知のはず。というように布都・布留は古代史解明には見逃せない地名なのである。ところが布留山に祀られているという布都御魂は古事記にも出てくるが、元は「布都(フツ)」ではなく布留でもあったのだ。布都の「ツ」と布留山の「ル」は「ツル交換」するから語源は同じと見ていい。 「ツル変換」については、右の図で前にも触れたから思い出してもらいたい。日本語の「シツ」が韓国語では「シル」になるという「ツル変換」の一例だ。これを見てもフツがフルになることは容易に理解できるはずだ。(ヘンな日本 おかしな日本 ダメな日本 ルーツのツール ホームページより)

物部氏とは、なにものか・・・(日本書紀の記録)
ヤマトには1柱の神と一人の人物がすでに舞い降りていた記録があり、出雲神・大物主神と天磐船(あめのいわふね)にのって舞い降りた物部の祖・饒速日命(にぎはやひのみこと)である。ともに天孫族と言う。饒速日命を支えたヤマト土着の長髄彦(ながすねひこ)、さらに南部九州から神武天皇がヤマトに集まってヤマトは建国された。
 饒速日命は、長髄彦の妹・三炊屋媛(みかしきひめ)を娶り、その子が可美真手命(うましまでのみこと) or 宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)で物部一族の祖先とも言われている。
 物部氏の足跡は、壱岐島に物部の郷が残り式内社の物部布都神社がある。末盧国(まつらこく)に物部の同属穂積氏が国つくりを任じられた。久留米市付近に物部系の弓削(ゆげ)があり、山門郡(やまとぐん)に物部の密集地帯が確認できる。大分県から瀬戸内海沿岸地域が物部東征ルートになり、神武天皇と重なる。今治市南部に式内社布都神社があり、韴霊(ふつのみたま)を祀っていた。岡山県の吉備に式内社石上布都之魂神社(ふつのみたま)があり、祭神はスサノオで「布都之魂」あるいは、「十握剣(とつかのつるぎ)」であったという。明石海峡付近に式内社物部神社あり播磨物部氏が祀っていた。
物部の出身地は、久留米市の高良大社は氏神であることから、筑後川流域、筑後平野ではと推理されてる。部氏は金属冶金(銅や鉄)に従事していた一族という。
710310日、平城京遷都に際し、石上(物部)麻呂は、現代の総理大臣でありながら藤原京の留守居役に任命され、物部つぶしの陰謀にはまり、抹殺された。仕掛け人は藤原不比等であろうという。これ以後、物部氏は朝堂のトップに上がれなかった。(物部氏の正体 関裕二著より)

★物部の秘密・蘇我の秘密
 日本書紀の持統天皇の朱鳥(あかみとり)元年(686)是歳(このとし)に次のような条がある。
   蛇(おろち)と犬(いぬ)と相交(つる)めり。俄(しばらく)ありて倶(とも)に死ぬ
 このことは何を言っているの? 犬と蛇が交尾して間もなく死んだということは・・・。
 「蛇」は、物部氏と尾張氏、天武天皇をさしているという。
 「犬」は、蘇我氏であるという。

 藤原不比等は、「蘇我と物部の悲願であった、天武天皇の律令制度を作る」を公約しておきながら、物部の豪族達の土地を濡れ手で粟の如く、奪い取ったのである。(物部氏の正体 関裕二著より)

雲太、和二、京三
 970 為憲(みなもとのためのり)という学者が書いた「國遊」(くちずさみ)に雲太、和二、京三」(うんた、わに、きょうさん)という言葉がある。建築物で高い順に言った言葉。雲太は、出雲神社の高さ。和二は東大寺の高さ、京三は京都の大極殿の高さを言っていた。

檜原 (ひばら) 神社
 この神社には本殿も拝殿もなく三ッ鳥居があるだけです。日本書紀によると崇神天皇が天照大御神を豊鍬入姫命(トヨスキイレヒメノミコト)に遷(うつ)させ磯城神籬(しきひもろぎ)を立て祀った倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)です。また、三種の神器の内の剣、鏡を安置したのがここだと伝えられています。後に天照大御神は伊勢に移され、ここは檜原神社として引き続き祀られ元伊勢(もといせ)とも呼ばれていました。境内には昭和六一年十一月に豊五日豊鍬入姫命を祀る鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎しました。万葉集等に「三輪の檜原」と数多く詠まれ山辺の道の歌枕ともなり西につづく檜原台地は大和国中を一望出来る絶好の場所でした。現在では木々がおおきくなり一望出来ません。(歴史街道 大和の古墳探索より)

 崇神天皇の代、国内に疫病が蔓延したため、宮中に祀られていた天照(あまてらす)大神と倭大国魂(やまとのおおくにたま)神の神威を畏れて、二神を宮中の外に祀ることにした。崇神天皇6年、天照大神は、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)によって笠縫邑で祭祀されることになった。一方、倭大国魂神は淳名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)に託して祀ることになり、神地を穴師邑にさだめた。だが、何故だか淳名城入姫命は髪が落ち体がやせて、この神を祀ることができなかった。そこで、翌年市磯長尾市(いちしながおち)に命じて鎮め祀らせたという。長尾市は大倭直(あがた)の祖で神武のとき大和の大    国造であった珍彦(うずひこ)の子孫であり、その後は、大倭氏が長く奉斎してきた。

○大神神社(おおみわ)
 大神神社は遠い神代の昔、大己貴神(オオナムチノカミ)が自らの幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)を三輪山に鎮め大物主神(オオモノヌシノカミ)の名をもって祀ったのが神社のはじまりです。本殿 は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居は大物主の命(オオモノヌシノミコト) 大己貴命(オオナムチノミコト)=大国主神 少彦名命(スクナヒコナノミコト)の三神を一体したものを通し三輪山を神体山として信仰する原初の神祀りの様が伝えられています。我が国最古の神社で大三輪之神(おおみわのかみ)としても知られていて大神をおおみわといい神の中の大神 として尊崇されています。 御神体の三輪山は奈良盆地をめぐる青垣山の中でも形の整った円錐形の山であり古来より神の鎮まります山として『古事記』や『日本書紀』には御諸山(みもろやま) 美和山(みわやま)三諸岳(みもろのおか)と記されています。三輪山は三諸の神奈備(みもろのかむなび)と称され高さ467m周囲16Km南は初瀬川(はせがわ)北は巻向(まきむく)川の二つの川によって区切られ山内の一木一草に至るまで神宿るものとして一切斧(おの)をいれることを禁じており、その為、山全体が松や杉や檜などの大樹に覆われています。(歴史街道 大和の古墳探索より)

 三輪山の神婚譚2種類
日本書紀が伝える倭迹迹日百襲姫命(やまととひももそひめのみことの話で、三輪山の神、大物主の妻となったが、夫は夜だけ通って顔を見せない。「お姿を見たい」と言う姫に大物主は「明日朝、あなたの櫛箱を開いてみるがよい。しかし、私の姿を見ても決して驚いてはいけない。」と念を押した。姫はいぶかしがりながらも、翌朝、櫛箱を開けてみると衣紐ほどの小さな蛇が入っていた。驚き叫んでしまった。すると大神は恥じて、あれほど注意しておいたのに自分に恥をかかせたと言って、三輪山に去る。後悔して座り込んだ姫は、そこにあった箸で陰部を突いて死んでしまった。それで姫の墓を箸墓という

美しい活玉依姫(いくたま)のもとに毎夜、立派な男がかよってきて、やがて姫は妊娠した。両親は男の正体を知ろうと、娘に「糸巻きに巻いた麻糸を彼の着物の裾に針で刺しなさい」といった。翌朝見ると麻糸は戸の鍵穴を抜けて、三輪山の神の社のところでとまっていた。それで生まれた御子が三輪の神の子であることがわかった。この神の子孫が、後に疫病を鎮めた大田田根子である。また、麻糸が最後に三輪だけ残ったので、この地を三輪というようになった。 (歴史街道 大和の古墳探索より)


    

溢れる
清々しい秋・・・猪田南回りウォーキング実施・・健康の駅(1016)
平成22年10月17日(日)  猪田地内 ウォキング大会 案内
H22.2.21()実施
画像

◎コースと時間

猪田8:30発 ~ (車中 富雄・矢田・斑鳩の歴史探索) ~ 

霊山寺(準備・トイレ)9:50 ハウキング開始 ~子ども交流館(トイレ) ~

 ~ まほらば展望台(生駒山・平群郷眺望) ~ 

国見台展望台11:50頃着・・・(奈良盆地眺望)・・・(昼食)・・・12:30() ~(10分で松尾寺) ~

松尾寺12:40頃着・・・(参拝・トイレ休憩)・・・13:10()・・・~ (1時間の予定休憩なし)~ 

法隆寺14:00頃着・・・(参拝・拝観・トイレ休憩)・・・16:10() ~ 市民センター 17:30着予定

◎コース全体

 コースは、生駒山系の東側に小高い山が南北に延びているのが、矢田丘陵です。北側の霊山寺から矢田丘陵の尾根を歩いていきます。頂上展望台で標高340m、国見台展望台で305m、松尾山で標高315mです。霊山寺前の富雄川堤からの出発で、標高は100m位です。法隆寺でも標高100m位で高低差は205240mです。ハイキングコースは南進しながら、尾根を歩くのでいつも左側は奈良盆地。右側は生駒山系。この生駒山系と矢田丘陵との間に龍田川が流れる平群郷があります。ハイキングの始めは登り坂がありますが、尾根に入ると平坦に近いコースになります。このコースは分岐点が沢山ありますから、全員からはぐれないように注意して進みましょう。最初の目標地点は松尾寺です。松尾寺からは、法隆寺です。松尾寺を出発すると下り坂ばかりですが、枯れ葉に足を滑らせ転ばないように気を付けてください。40分程でゴルフコースが見えてきます。終着点法隆寺が間もなく見えます。残りわずかだが頑張りましょう。

 霊山寺(りょうせんじ)霊山寺の所在する富雄の里は、古事記には「登美」であり、日本書紀では「鳥見」の地となっています。敏達天皇の頃より、この地方は小野家の領有でした。右大臣小野富人(遣隋使・小野妹子の息子と伝わる)は壬申の乱に関与したため、弘文元年(672)官を辞し、登美山に閑居しました。天武12年(68445日より21日間熊野本宮に参籠。この間に薬師如来を感得され、登美山に薬草湯屋を建て、薬師三尊仏を祀って諸人の病を治されました。そして富人は鼻高仙人と称され尊崇されたのです。神亀5年(728)流星が宮中に落下し、大騒ぎになり孝謙皇女が征中の病(ノイローゼ)にかかられた時、聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、湯屋の薬師如来を祈念すれば治るとのお告げがあり、すぐに行基菩薩が代参。皇女の病が快癒しました。天平6年(734)聖武天皇は行基菩薩に大堂の建立を勅命。天平88月インドバラモン僧、菩提僊那(ぼだいせんな)が来日され、登美山の地相が霊鷲山(りょうじゅせん)にそっくりということから、寺の名称を霊山寺(りょうせんじ)と奏上され、落慶となりました。平安時代、弘法大師が来寺され、登美山に力の強い龍神様がおられると感得され、奥の院に大辯財天女尊(弁天さん)として祀られました。それまで当寺は法相宗でしたが、弘法大師が真言宗を伝えられ、以後は法相宗と真言宗の2宗兼学の寺となりました。(霊山寺 ホームぺージ 抜粋)

 ●松尾寺厄除観音を本尊とする日本最古の厄除霊場・厄除祈祷の名刹 大本山 松尾寺は、太古の人々が神仏の化身とも神の座とも思って天を拝したという 天拝山の遺跡である美しい大岩を背にして、本堂(元金堂)を中心に、その左に三重塔・十三重石塔・西国三十三所観音(石仏)すぐ上に養老年間鎮守として勧請された松尾大明神を祀る松尾山神社など神仏習合の古刹である。(松尾寺 ホームぺージ 抜粋)

 ●法隆寺(斑鳩宮、若草宮、上の宮)→奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山ある。別名を斑鳩寺(いかるがでら)という。聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院である。創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より約20年後の607年とされるが、確証はない。金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれる。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した。その画像から割り出した結果、建立した年年輪年代測定を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることがあらためて裏付けられた。問題は、金堂の部材が、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐採と見られることである。伐採年(668)が日本書紀における法隆寺の焼失の年(670)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性をも示唆するものであるが、これについては、若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在する。なお、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって最も外側の年輪が591年のものとされており、他の部材に比べてなぜ心柱材のみが特に古いのかという疑問が残った。心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

夢殿救世観音像の謎

フェノロサにより見出されるまで、白衣でぐるぐる巻きにされた秘仏であったのは何故か?
 明治時代(18884年)にフェノロサによって見出されるまで数百年の間、白衣ぐるぐる巻きの秘()れ、フェノロサが白布を解く時に寺僧達は悉(ことごと)く逃げ出したと伝えられている。この像には怨念や祟りと関係があったものと思われる。そもそも夢殿はなんの目的で作られ、救世観音はなんの目的でここに安置されたか?。 通説では行信僧都が739年に聖徳太子を供養するため再建された法隆寺の横に東院伽藍(上宮王院)を建てそこに八角仏殿(夢殿)を建立したとある。これだけでは何故その中に祟りと関連するような救世観音が祭られているか判らない。(美と史への巡礼 救世観音の謎 ホームページより抜粋)



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