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 ヒメヒコ・ライン

              市井民人

 

ヒメヒコ・ライン の図

<<   作成日時 : 2004/12/13   >>

『古事記』のイザナミの太八島国(日本列島)の生成の段に、次のような文章がある。
 「その後、吉備の児島(こじま)を生みき。……次に小豆(あづき)島を生みき。……次に大島を生みき。……次に姫島を生みき。……次に知訶(ちかの)島 を生みき。……次に両児(ふたごの)島を生みき。……」
 この地名を順に並べ、現在擬されている地名を注すとこうなる。
@吉備(きびの)児島(こじま)(岡山県児島半島)
A小豆(あづき)島(じま) (小豆(しょうど)島)
B大島  (愛媛県大三島か、山口県屋代島)
C女(ひめ)島  (大分県姫島)
D知訶(ちかの)島 (長崎県五島列島)
E両児(ふたごの)島 (長崎県男女群島)
 これを地図上にとれば、このうち、A小豆(しょうど)島、E長崎県男女群島を除く、@、B、C、Dの地は、すべて(大三島も、屋代島も含めて)、一直線 上に並ぶ。
 そして、このラインは英彦山を通り、延長すると姫路〔や御岳山、諏訪神社、宇都宮〕を通る。そこで私はこのラインを、姫路(あるいは姫島)や英彦山を通 ることから、ヒメヒコ・ラインとよんでいる。
(このラインは、地図上に線を引いただけで、大円の公式で正確には計算してない。)

聖なる「道」と、京都(みやこ)郡。

<<   作成日時 : 2004/12/14   >>

 古代人は方位線(聖なるライン)をなんと呼んだのだろ うか。私はそれを「道」と呼んだのではないだろうかと思う。
 人々は原野や山谷を旅せねばならなかった。そのとき磐座(いわくら)などの地形や山を目印にし、石積みの塔(ケルン)や道祖神のような境界神を要所々々 に置いて、その徴標によって道は存在した。目的地や、その徴標と徴標の間は、想念においては一直線に結ばれていたのである。後には方位線に沿って社寺・古 墳・遺跡・遺物・都市や、その地名なども目印になった。
 そのような一直線の「道」は神々が通る道である。神は方位の道を往来して、人々のそばに来て禍福をもたらすのである。道教の「道」にも、このような認識 が念頭にあったのではないだろうか。
 そのように考える根拠の一つは、ヒメヒコ・ラインの線上に姫路が存在することである。『播磨風土記』に姫路の地名は、日女道(ひめじ)丘という呼称から はじまったとある。このことから、ヒメヒコ・ラインは古代には日女道(ひめじ)と呼ばれていたのではないかと考える。
 もうひとつ、私は,英彦山の北方に、(福岡県)京都(みやこ)郡という地名があるのが気になる。かつて、この地が都京だったのではないか。英彦山は、そ の地の神体山ではなかったかと思う。
 そして、ヒメヒコ・ラインはその頃の聖線ではないだろうか。

HP:「両面スクナの謎が解けた!」もご覧ください

<<   作成日時 : 2004/12/16   >>

 「両面スクナの謎が解けた!!」というホームページもできました。
 日本書紀に出てくる両面宿儺の正体を明らかにしました。それで、「両面宿儺の図」という掛け軸を探しています。これは見つかれば国宝級の価値のある図で す。
 このHPをご一読ください。
 http://www.ict.ne.jp/~igaokada/

HPに 新ページ 「雛祭りの起源」 を追加

<<   作成日時 : 2005/02/01  

ホームページ『両面スクナの謎が解けた!』に、「雛祭りの起源」というページを追加しました。
ご覧いただければ幸いです。

http://www.ict.ne.jp/~igaokada/

 

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