日本三大あだ討ち荒木 又右衛門

日本三大あだ討ちとは          鍵屋の辻 場所

@荒木又右衛門 鍵屋の辻写真                 

 江戸初期の剣客。隣村奈良県柳生の里、柳生十兵衛三厳(みつよし)に剣を学ぶ。寛永11年、伊賀上野鍵屋の辻で、妻の弟渡辺数馬を助け、数馬の弟(一説に父)源太夫の仇、河合又五郎らを討つ。伊賀の仇討として、浄瑠璃「伊賀越道中双六」などに脚色された。(1599〜1638)。

A蘇(曾)我物語

『曾我兄弟の仇討ち』

 曽我兄弟の父、河津三郎祐泰は伊豆の伊東で工藤祐経に暗殺され、兄の曽我十郎祐成、弟の曽我五郎時致は武士道の面目にかけて仇討の達成を念願しました。建久4年(119 3年)5月、源頼朝が富士山麓を舞台に大巻狩を催し最後の狩場として白糸の滝付近に陣を構えました。工藤祐経の陣は音止の滝の東方にあり、兄弟はこの夜、松明を手に幾つもの木戸に防げられながらも、ついに仇討ちを成し遂げました。しかし、兄は新田四郎によって斬殺され、弟も捕えられ、翌日処刑された。


直接関係がありませんが参考として

蘇(曾)我入鹿 蘇(曾)我蝦夷の子。皇極天皇のとき、国政をもっぱらにして権勢をきわめた。山背大兄王一家を滅ぼしたり、自家を宮門(みかど)、子を王子と称するなど専横が多かったため、大化元年三韓朝貢の儀式に列席した際に、中大兄皇子らによって暗殺された。(〜645)

 蘇(曾)我馬子 蘇(曾)我稲目の子。父についで敏達・用明・崇峻・推古四朝の大臣となり、姻戚関係と仏教を利用して天皇家に近づいて政敵物部氏を滅ぼし、さらにみずからたてた崇峻天皇との間に不和が生じると、これを殺すなど専横をきわめた。聖徳太子に協力して、わが国最初の国史といわれる「天皇記」「国記」などの撰録を行った。(〜626)

B赤穂浪士 元禄15年12月14日、江戸本所松坂町に吉良義央を襲って、主君浅野長矩の仇を討った旧赤穂藩士47名。翌年2月、切腹を命じられた。大石良雄・吉田忠左衛門・原惣右衛門・片岡源五右衛門・間瀬久太夫・小野寺十内・大石主税・磯貝十郎左衛門、堀部弥兵衛・近松勘六・富森助右衛門・潮田又之丞・堀部安兵衛・赤埴源蔵・奥田孫太夫・矢田五郎右衛門・大石瀬左衛門・早水藤左衛門・間喜兵衛・中村勘助・菅谷半之丞・不破数右衛門・千馬三郎兵衛・岡野金右衛門・木村岡右衛門・吉田沢右衛門・貝賀弥左衛門・大高源吾・岡島八十右衛門・武林唯七・倉橋伝介・村松喜兵衛・杉野十平次・勝田新左衛門・前原伊助・間瀬孫九郎・小野寺幸右衛門・間十次郎・奥田貞右衛門・矢頭右衛門七・村松三太夫・神崎与五郎・茅野和助・横川勘平・間新六・三村次郎左衛門・寺坂吉右衛門。