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 1.農人町道標(上野農人町)
 現井元薬局角の交差点は大和街道と伊賀街道の追分けで伊賀街道起点の地の標識と道標が建っている。「加太越奈良道見取絵図」では東南角と北西角に道標が描かれており、これは北西角のもので平成17年に保管されていた農人町集議所から元の位置近くに移された。当初は角にあり4方向からみられた。
 東面「すぐ京大阪ならはせ道」、北面「ならはせ」、南面「是ヨリ北江東海道関」、西面「すぐいせ左リ江戸」の刻銘がある。東南角にあった道標は現存しない。

2.赤坂町道標(上野赤坂町)
 赤坂町の通称坂上町に曲がる丁字路の東側にあった道標で平成17年に保管されていた赤坂町集議所の裏庭より元の場所に移された。1800年代初めに作成された「加太越奈良道見取絵図」では服部村を通って北から加太越奈良道(大和街道)を上がってくると赤坂町の木戸があり、「上野宿」の記載がされ、道標も描かれており、町への入口であることを示している。道標には北面「右ならはせ山上道」西面「左東海道せき道」の記銘があり、文政6年( 1823 )に造られたものである。
 

3.道路元標と中町道標(上野中町
 上野中町の辻に上野町元標の銘のある道路元標が残っている。ここは大和街道と名張街道との追分けで藤堂藩初期に高札場があり、札の辻と呼ばれたところであ道路元標は大正9年4月に施行された道路法施行令に「道路元標ハ各市町村ニ一箇ヲ置ク」と定められ、道路の付属物として規定され、道路の基点として設置されたものである。標石の大きさは幅・奥行きともに25cm、高さは60cmに定められた。普通は佐那具町に現存する「府中村道路元標」のように何々市町村道路元標と刻まれているがここのは何故か「上野町元標」である。3面に刻銘があるのも珍しい。また、この辻の南西角に道標が建っていたが、これら江戸期の2つの道標は今は個人宅の庭に移されており、現在に至る。

4.鍵屋の辻道標(小田町)
  鍵屋の辻は剣豪荒木又右衛門が渡辺数馬を助太刀して仇討ちをおこなった場所として知られているが辻の西北角に高さ2.1mあまりの大きな道標があり、「ひだりなら道」「みぎいせみち」「文政13庚寅年(1830)仲秋」再建立の銘が刻まれている。その西側に以前の道標が並んでいる。ここは伊勢街道と大和街道の分岐点で信楽への追分けでもあります。また、ここを左にとり、すぐの三叉路の三重交通車庫角には明治27年7月建立の高さ2.35mの道標があり、「 左月瀬みち 」「 右奈良大阪 」と刻まれている。

5.増田嘉兵衛の顕彰碑(上野車坂町及び上野公園内) 
  城下町の東、上野車坂町にある常夜燈の脇を通って通称花の細道と呼ばれている小道があり、そこに面して小さな社と増の井碑と刻まれた石組み付きの高さ3m近くの石碑(左図)が建っている神社らしき広場がある。ここは増田嘉兵衛の生家跡である。碑は横浜で大実業家となり地元に巨費を投じて大きな功績のあった嘉兵衛翁を顕彰するもので大正6年に建立された。増田嘉兵衛は天保5年(1835)にこの地に生まれ、後に横浜で増田屋を創業し、対外貿易で成功、特に外国糖の輸入で巨利を得、大貿易商となる。明治3年には伊藤博文一行とともに渡米し、金融貿易産業等を調査し、横浜開港の先駆者として、横浜の繁栄の基礎をつくった。翁は愛郷の念が深く、翁からの寄付1万5千円で大正8年上野公園内に上野町公会堂が建設された。又、上野、中瀬両町村に資金を寄付し、増田教導資金を創設して郷里の育英事業にも貢献した。翁は大正9年(1920)に死去、昭和12年にはその功績を讃えて、川崎克氏書による増田嘉兵衛顕徳碑(右図)が上野公園内に建立された。城下の2つの碑が翁の功績を厳然と示すとともに、消えようとする記憶をかろうじて伝えているようでもある。

6.菊岡如幻翁旧宅跡の石碑(上野福居町) 
  西の立町通りと二之町筋の交差点の北西角にこの石碑が建っている。この碑石は昭和6年に設置された元の上野町尋常高等小学校の門柱であったものを再生させたもので碑文は当時の上野市長山本忠雄氏の揮毫により昭和42年に伊賀郷土史研究会が建立したものである。菊岡氏の先祖は源三位頼政の一族で戦いに敗れて伊賀に逃れ、島ヶ原の菊岡に住んだという伝えがある。その後、行任という人の時に久米村に移住、3代目行正の時に高虎の城下建設に伴い慶長19年(1614)にこの地に移り住んで質屋と両替商を営む久米屋という商家を開いた。菊岡如幻は寛永2年(1625)「久米屋」の嫡男として生まれる。幼名捨松で家督を継いで市左衛門行宣と名のり、隠居して如幻と号した。如幻は北村季吟に師事して和歌・俳諧を学んだ。帰郷後は家業の傍ら著述に専念しその著書は後の世に多大の影響を与え、中でも茅栗草子(伊賀の民話)、伊乱記(天正伊賀の乱の説話)、殺法轉輪記( 伊賀越仇討の説話)伊水温故(伊賀の地誌)、世諺一統( 150巻にのぼる大著で百科事典的なもの)などが有名である。これらの書はすべて久米屋において著されたからこの旧宅は伊賀文学発祥の地ともいえる。元禄16年(1703)5月7日、79歳で没。墓は守田町の九品寺にあります。

7.西嶋八兵衛屋敷跡の碑(伊賀市上野丸之内) 
 伊賀市役所の南にある伊賀信楽古陶館の玄関脇の植え込みに西嶋八兵衛屋敷跡と刻まれた石碑(左図)が建てられている。西嶋八兵衛之友は。慶長元年( 1596 )遠州浜松に生まれ、17歳で藤堂高虎に仕え、大阪冬の陣・夏の陣にも出陣、その後高虎の元で土木工事を習得し、ため池の達人いわれ、灌漑や治水事業に功績のあった藤堂藩の優れた土木技術者であった。寛永2年(1625)四国高松生駒藩に請われて派遣され満濃池などの灌漑用の池の改修を手がけるとともに、数多くの溜池を造り、いくつもの新田の開発も行った。県内では雲出井の開削などの治水事業や伊賀の山畑の新田開墾などに取り組み、伊賀地域の溜池では29の新設、14の改修を行ったといわれています。慶安元年(1648)52歳で城和奉行(山城・大和にある藤堂藩領の奉行)に任じられ、伊賀加判奉行1年の中断期間があるが引退までの約29年間城和奉行としてつとめ、晩年はこの場所に屋敷を構えた。引退後3年たった延宝8年(1680)85歳で亡くなり、墓所(右図)は上野紺屋町の正崇寺にあります

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