いつか死にゆく人としての小さなケジメ

斎藤 茂太

 東京へ行く新幹線の中で読んだ。買ったのは、正月に行った綾部の「万代」というリサイクルショップ。

 本の帯には、「ふつうの人のおだやかな死への準備 納得のいく人生を送るために」とある。一冊の本を読んで、納得のいく人生が送れるわけではないが、「ちいさなケジメ」という本のタイトルが気になって読んでみた。

 参考になったのは、本人が亡くなった後、処分に困る筆頭は「日記」だそうだ。「日記は、生きている間だけ、書いているその人だけに意味があるものであって、その他には意味がない。」考えてみればそうだ。歴史上名を残す人の日記であれば、後の歴史家に解説もされようが、僕などの日記では、後々かみさんが腹を立てるだけだろう。断っておくが、僕は日記をつけていない。斎藤氏は「一年のできごとは、その年の終わりに区切りをつけてしまう。これが晩年の心構えのように思う。」と話す。僕は、日記ではないが、高校時代の手紙などを机にしまったまま、放ってあった。これをかみさんが見つけて、大事にとってあると疑いをかける。大事にとっておいた訳ではないが、これでは、斎藤氏が言うようにフットワークが重い。早々に処分しようと思う。

 「あの世に旅立ったとき、かねて伝えておいた引出しを開けると、預金通帳にハンコ、家の権利書、連絡すべき人々のメモ、形見分けのメモ、遺言書、葬式の段取り、それに遺影となるべき写真まではいっていれば、まさに至れり尽せりということになる。」あっぱれだ。僕も自分の司会で自分の葬式を取り仕切りたいと思っているが、まだ、録音をしていないところをみると、まだ、先のことと考えているようだ。

 何かを買えば何かを捨てる。「新しいものをつくる(ビルド)分だけ、古いものを処分(スクラップ)してしまう。」「あの世に持っていけるものは何ひとつない。」「ここから出発して、残していくのは思い出だけでよいと思えれば、フットワークは格段に軽くなるはずだ。」なるほど、なるほど。

 「自分自身を受け入れ、年相応に役割を変えていく」「年相応というのは、今の自分の役割を誰かにゆずるということなのだ。ゆずらなければ新しい役割につけない。そういうことだから、さわやかにゆずりたい。」これを習慣として身につけることが、未練を少なくするということだと言う。「自分で探そうとする人には、必ず他の生きがいが手に入るようにしたのは、神様の粋な計らいのうちのひとつだし、どんなやりかたであっても人は何かの役に立てる。」大切なことだと思う。

「今の自分に執着しない生き方、変えてはいけないことさえ変えなければ、後はどんどん変えていい。」というのは、今の僕には難しいが、真実だと思う。

 「生涯現役」として何を忘れないか。斎藤氏は「自分ができる範囲で世の中とかかわっていられるから現役だと思いたいのである。人に笑顔を向けることだって、りっぱな現役の証明である。」

さらに「誰かが自分を必要としてくれるだろうと待っているだけでは、世間から取り残されていってしまう。できることをやらせてくださいと扉を押してみるかどうかで、世間はがらっと変わってくる。」という話は、必要とされなかったら、必要とされるところでがんばろうと思う僕にとって意味のある言葉だ。必要とされるところがあればいいが、なくなっていくというのが年を重ねるということだろう。もちろん、更に必要とされる人もいる。

 「かわいげのある人生とは、めぐってきた運命は文句をいわずに受け入れて、次の展開を考えることができるということなのだろう。」「感謝することができれば、かわいげのある人になれるし、いまわの際にはいてほしい人がいてくれるだろうし、未練も少なくすることができる。」まだ、今の僕にはよく分からないが、70歳まで、生きられれば、肝に銘じよう。

 このように学ぶことが多かった本だが、一番納得できたのは、斎藤氏がこの本の終わりのほうで書いてある「生とは、死とは、と無理に知ろうとしなくてもいいのである。無理に悟ろうとしなくてもいいのである。」という言葉だ。「生きていることだけを楽しめば、それでいいのである。」という。何か肩すかしのような言葉だが、ほっとした。斎藤氏にありがとうと言いたい。