「ものがわかるということ」 養老猛司 祥伝社
「ものがわかるということ」はどういうことなのか、知りたいと思った。
【記録したいと思ったところ】
1.脳への入力は五感です。目で見る、耳で聞く、手で触る、鼻で嗅ぐ、舌で味わうことが入力にあたります。対して、出力は、筋肉の運動だけなんです。
2.脳の中にできあがる関係式を「モデル」と呼ぶことにしましょう。モデルができると、運動をコントロールすることができます。モデルにもとづいてよそっくができるようになるからです。入力と出力の行ったり来たりというループの典型が言語です。複雑な筋肉の運動から声が出て、それが自分の聴覚で捉えられます。その聴こえ方によって、再び筋肉の動かし方を調整するのです。繰り返しますが、これが「学習」の根本です。
3.『論語』の「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉があります。私の解釈は学問をするとは、目からウロコが落ちること、自分の見方がガラッと変わることです。人間が変わったら、前の自分は死んで、新しい自分が生まれていると言っていいでしょう。
4.共同体は、言語、婚礼や埋葬その他の社会的儀礼、通貨などを共有します。それがシンボルとシンボルの体系を共有するということです。こういった集団でシンボル体系を共有することを「共通了解」と呼ぶことにしましょう。それから論理・哲学・数学による強制了解、さらに自然科学による実証的強制了解へと(文明は)すすんできたと言えるでしょう。
5.イギリスの哲学者ジョン・ロックは、自己は身体を含まないと考えます。ロックだけでなく西欧文明では、かなり前から「自分は身体ではない。身体は自分ではない」と思ってきました。西洋はキリスト教世界で、キリスト教では霊魂不滅だからです。霊魂は身体ではなく、身体は霊魂ではない。身体は霊魂の仮の住まいなのです。霊魂が不滅でないと、神様は最後の審判ができません。神様も困るはずです。それなら「永遠に変わらないものとしての魂」がなければなりません。だから「変わらない私」「自己同一性」が暗黙の前提とされているわけです。こうした西洋人がとらえる自己は、かつての日本人がとらえてきた自己とは全然違います。いちいち(日本語では)「自分は自分である」「俺は俺である」ということを言葉で明確にしなくてもいい。区別がはっきりしているからこそ、言葉は問題にならないのです。
6.基礎学力どころか、人生諸事万端、すべて学ぶ基本は同じです。反復練習しかありません。個性とは、私だけの思い、私だけの考え、私だけの感情だという世界では、学習は反復練習だ、身につけることだ、という常識は消えてしまします。心や頭に個性があったら、それをどうやって伸ばせばいいのか、わかるはずがありません。心や頭は「共通了解」の世界だからです。
7.SNSには身体がありません。純粋脳化社会です。身体がないので、言葉、概念だけでコミュニケーションをする。概念の力は「同じ」をつくることです。違いは認められない。――次第に他人の評価に自分を寄せてしまうようになって、周りのことばかり気にするようになります。
8.ウソは三つの段階で生まれると考えています。第一段階は記号化する段階です。典型的なのは捏造です。第二段階は、記号化した情報を発信・受信する段階です。発信する(受信の際も)情報の取捨選択が行われる。第三段階は、無意識のレベルで生まれるウソです。意識は記号化されないもの(情報)を無視します。意識は、それに気づくことができません。
9.彼ら(子ども)がもっているのは、何も決まっていないという、まさにそのことです。私はそれを「かけがえのない未来」と呼びます。だから、予定を決めれば決めるほど、子どもの財産である未来は確実に減ってしまうのです。子どもの頃、よくバケツにいっぱいカニを捕って遊んでいました。「お前それをどうするの」と言われても、別にどうするわけでもない。捕ったらあとは放すしかありません。子どもはそういう目的のない行為が大好きです。生きているとは、そういうことです。
・自然がわかる。生物がわかる。その「わかる」の根本は、共鳴だと私は思います。人間同士もそうでしょう。なんだか共鳴する。「どこが好きなんですか」と聞かれても、よくわからない。理屈で人と仲良くなることはできません。
・五感で受けとったものを情報化する
【読んで自分を変えたいこと】
・反復練習が大切なことと、目的のない行動もそれが人生。