「天神さんが晴れなら」 澤田瞳子 徳間書店
【記録したいこと】
1.テレビやット、新聞といった情報媒体をはさむとき、人はの向こうに起きた出来事を自分と隔たったことと思い込んでいないだろうか。ネットやメディアは自分とその出来事の間の距離を縮めて見せているだけにもかかわらず、己の眼以外の媒体の存在に安心し、自らを無意識に傍観者として扱っていまいか。
だが世の中のどんな華やかな出来事も、はたまたどれほど悲惨な事件も、それらは決してよその世界の話ではない。もしかしたらテレビの画面の中からひょいと手を出してこちらをその中に引きづり込むかもしれない、極めて現実的な事象なのだ。
2.小学生だった私にはわからなかったが、今なら理解できる。あの四年間で私が知ったのは、暮らしの中で流れる時のひそやかさであり、日常に隠れた美でありーーーそして過行く歳月の悲しみだったのだ。
3.ところで2017年2月から同年11月にかけて、私は読売新聞夕刊(一部朝刊)で「落花」(中央文庫)という長編小説を連載させていただいた。主人公は宇田法皇の孫である仁和寺の僧・寛朝。故あって板東に下向した彼が、在地の豪族である平将門と出会い、その乱に立ち会うというストーリーである。
4.それまでの私は、大学で能楽部に入り、能管や大鼓の稽古などを含めて、能には随分親しんできたと思っていた。能が他の文化に多大な影響を与えていることも、頭では理解していた。しかしながら暁斎の絵を能を通じて深く解釈できた時、日本の文化の中には能によって新たに開かれる扉があると、ありありと感じた。
5.そう、つまり我々が普段接する「歴史」とは、史書や金石文に書かれた記録だけがつくるのではない。人から人へと伝えられた噂話、こうだったらいいなという願望も長い歳月に磨かれる間に、あたかも真実の如き輝きを帯び、やがては他の歴史的真実と見分けがつかなくなるのだ。
6.ところで『蜩ノ記』(祥伝社文庫)で直木賞を受賞なさった直後のエッセイで葉室(麟)さんは尊敬する記録文学者・上野英信氏を訪ねた日の光景を綴っておられる。客人をもてなすため、上野氏は近くの土手で土筆を摘み、奥様はそれを卵とじにして、焼酎と共に供された。<若いだけで、いまだ何者でもない私をもてなすために土筆を摘んでくださる姿が脳裏に浮かんだ。その時、古めかしくて大仰な言い方だが「かくありたい」と心の底から思った。土筆はわたしの生きていく指針になった>
【私の感想】
著者の澤田瞳子さんは、歴史小説を書かれる作家の中で、好きなひとりです。その方のエッセイということで、図書館で借りて読みました。前半は、日常のことを書かれていて、澤田さんでなければ、興味が持てない内容でしたが、そこは、好きな作家さんの日常ということで、興味を持って読みました。後半は、著書にまつわるお話や取材にまつわるお話で、とても興味を持ちました。歴史研究者としての澤田さんと小説家(ストーリーティラー)としての澤田さんを感じることができました。私たちが知ることのできる歴史とは、どこまでが事実なのか、まして、受験のための歴史学習が多かったので、今に必要な歴史学習は、続けたいと思います。