「家庭裁判所物語」 清水 聡 日本評論社
朝ドラ「虎に翼」の影響で、図書館に行ったとき手に取った本。三淵嘉子さんたち、家庭裁判所を創ってこられた方や今の様子が書かれている。
【記録したいこと】
1.昭和41年5月23日 法務省は正式に「少年法改正に関する構想」を発表する。同時期に解説資料として「少年法改正はいかにあるべきか」というタイトルの説明書も発表している。その詳細な説明書の冒頭、目次の次の「まえがき」には、いきなり次の文章がある。
—興降する国家民族の中心をなすものは、つねに青少年の力であり、その健全な育成を図ることは、世の親の願いであるとともに、国家社会に課せられた責務である。
戦前と見がまう言葉が並ぶ。こうした文言が、敗戦からわずか20年あまりで、行政文書に再び姿を見せるようになっていたのだ。
2.同じ東大安田講堂事件でも、静かで充実した家庭裁判所の審判は、非公開だけに外部からうかがい知ることはできない。内藤(頼博)の記録によれば、彼が担当した四人の少年に対し、警察の処遇意見は全員「厳重処分」、検察は全員「刑事処分相当」であった。だが内藤は、調査官による詳細な調査や審判の結果、親や学校の元で立ち直ると判断して、四人全員に「不処分」の決定を出した。
3.裁判官はもともと優等生である。例えて言うならば、先生に率先して従う学級委員長とでもいうべきか。小学校で先生に命じられた宿題よりも倍の分量を提出し、得意げな様子を見せる子どもにどこか似ている。—-行き着く先は、全体主義化である。
4.その日(2011年3月11日)、仙台家裁所長の秋武憲一は、六階の所長室でソファーに座り、各支部の裁判官たちと雑談をしていた。—-秋武は、この時に気づいたのだという。「家庭裁判所は弱い立場の人たちを支援するためにあるということを、思い出したんです。震災の時は、社会的弱者は、更に弱い立場に立たされる。家裁の裁判官や職員は、震災の時こそ、弱い人たちを救う、後見的立場に立たなければならないのです」
5.例えば多くの人が誤解しているのだが、このまま単純に少年法の対象年齢を引き下げても、厳罰化にはならない。成人でも軽い事件を中心に、全体の六割ほどは起訴猶予になる。犯罪を起こした18歳や19歳も、半分以上はそのまま釈放されて、何の手当もないまま、社会へ戻されることになる。よく言われる「事件の責任を負わせるべき」という主張とは、正反対の結果になる。
【私の感想】
戦後、新憲法の元、創られた家庭裁判所の当時の裁判官の方たちの苦労が書かれていた。知らない内容ばかりだった。「家庭裁判所の父」と呼ばれた宇田川潤四郎氏は大腸がんのため63歳で亡くなった。三淵嘉子さんは69歳で亡くなった。今からみれば、若くして病気で亡くなったが、この方たちの歴史を、朝ドラで観るまで知らなかった。家庭裁判所の理念も素晴らしいが、調査官を養成する研修所も素晴らしいものだった。最高の講師陣による1年間の研修は、その後の調査官として、少年たちや婦人たちを支える基礎となった。「ただちに役立つ調査官を養成するということよりも、将来の、10年先の調査官を作る。」という言葉を、初代所長の内藤氏は研修方針として残している。同じ一生を生きるのに、私とはえらい違いだなと思う。