奈良と伊賀上野
奈良と伊賀上野のつながりは、私が勤めていたところと住んでいるところというつながりです。これは、とても個人的なつながりなので、もう少し視野を広げようと思いました。
歴史
まずは、有名な奈良のお寺「東大寺」造建の最高責任者であった猪名部百世は、伊賀の人だった。東大寺要録に「大工従四位下 猪名部百世者 元伊賀国人」と記されている。
天智天皇の四年(665)百済の遣民男女400余名が近江の神崎町に来住し、その半数近くが伊賀に入って、佐奈具、中瀬、阿波、長田、名張に住んだ。これらの帰化人はいずれも技術・文化に秀でており、その系譜に猪名部百世がいる。
そして、東大寺の荘園が伊賀にはたくさんあった。経済的にも奈良との関係が深い伊賀は、平安後期から鎌倉時代にかけて作られた仏像の特長にも影響がみられる。三重県内では京風の仏像が多い中で、伊賀は奈良風の仏像が多いそうだ。
※そして、戦国時代の話。「洞ヶ峠の順慶」といわれ、日和見主義の代名詞とされた筒井順慶。実は1582年の山崎の戦いでは大和郡山城にいたので、洞ヶ峠で戦況を見ていたわけではないらしい。とにかく、この順慶が1584年に亡くなった後、甥の筒井定次が継いだが、伊賀上野に転封された。なぜ、伊賀上野に転封されたのか。筒井順慶は、天正九年九月、信長の伊賀攻め、いわゆる「天正伊賀の乱」に出陣している。伊賀・長田の地侍、百田藤兵衛らが迎え討ったが、この戦により、私が今住んでいるあたりが決戦場(比治山の戦い)となり、焼け野原となった。百田藤兵衛も越後長岡に移った。これらの戦で手柄を立てた順慶も、天正12年8月11日に郡山城にて36歳で胃潰瘍により死去した。順慶に実子がなかったため、養子の定次が相続をした。この間、明智光秀が織田信長を暗殺している。本能寺の変(天正10年6月2日)である。定次が伊賀上野に転封されたのは、順慶が光秀と懇意にしていたこと(結果的には、順慶は光秀に加担しなかったが)、そして、大阪城を中心とする羽柴秀吉の支配基盤を固める上で大和は東に位置する要衝であることから信のおける一族をおく必要があったこと(秀吉の弟・羽柴秀長の所領となった)、そして、筒井家と大和の興福寺などの寺社勢力との切り離しが目的であったといわれている。(※「戦国浪漫」(http://www.m-network.com/sengoku/index.html)より)