同友会大学で何を学びどういきるのか
〜激動する情勢と中小企業で働く幹部の役割〜
社会人になって、17年程経過した。その間、福祉・医療の現場で仕事 をしてきた。再就職であったり、出向であったりしながら、いくつもの職 場で仕事をしてきた。それでも、自分の興味がもてる職種・職場であった
のは幸運といえる。
今回、中小企業家同友会の第5期共育講座を受講する機会を得て、何とか卒業の運びとなった。これまでの社会人生活(学生も社会の一員であるので主に勤労によって、人生を送っているといえようか)の中で、この講座を受けて変化をしたことを表面的にあげれば、
@電卓を離さなくなった こと。…経済の単元で科学的・計数的に物事をみたいと思ったため。
A新 聞で経済の欄も出来るだけ目を通そうと心がけるようになったこと。の2点である。
その他に、私自身の満足として、教育についての現在の思いを レポートとしてまとめる機会を与えられたことに感謝をしている。 そして、人間は学び続けなければならないということも、強く感じた。
それは何故か、を少し整理したい。
2.
より愉快に生きるためである。…物事あるいは事物に出会ったり、見たりする場合、その対象についての知識を持っているのと持っていないのでは、その物事や事物についての理解の深まりが違うというのは確かだと思う。知るという喜びは、学習によって、更に質の高いものになるのだろう。
3.
つまり、人間は社会的であるが故に、学ばずにはおれない動物なのだろ う。…人間は、環境に対応しながら環境に合わせるだけでなく、環境に働
きかけ、環境を変える力をもっている。勿論それは、自然を破壊するといった作用ももたらしたが、道具(手段)を使い、コミュニケーションを発 達させながら個の力では及ばない力を獲得してきた。人は誰もがよりよく
生きたいと願うからである。
その、環境を知り、道具(手段)を使い、コ ミュニケーションを発達させるうえで、学習が不可欠なのだ。
すでにある道具(手段)・コミュニケーションの習得に学習が必要だし、さらにそれらを発達させるためにも学習が必要だからだ。特に、環境の激変期である(激動する情勢にある)今日においては、働きかける環境の現在と行方をその流れにおいて把握することは、かじ取り役の幹部にとって最重要であ
る。
また、それを幹部だけでなく、職場のスタッフに同じように理解をしてもらうことも重要である。多くのスタッフの認識の違いが、より深い認識につながっていくだろう。
それでは、その学習を権利としてどう保障させるのか。そのためには、学習の時間、学習の場所、学習の内容が保障されなければならない。そして、何より必要なのは、学習を受ける者の目的意識である。
管理と競争・ 選別の教育・学習でなく、本質・法則を知る教育・学習であればその過程には必ず感動があり喜びがある。何故なら、よりよく生きる上で、役に立ち、自己を実現していくことにつながるからだ。
文化をつくるのは、このような学習の場である、と感じる。誰もが、学びたい時に、費用の心配なく、充実した内容の学習が保障されることは、人が生まれながらにもっている自然権に位置づけられてよいと思う。
さて、労働と学ぶというのは、切っても切れない関係だが、労働と生き
ることはどうだろうか。何故、私たちは働くのか、という疑問である。言うまでもなく、私たちは封建社会のように、土地に縛られ、職業を固定化されることはなく、職業選択の自由を持っている。雇われて働く場合には、賃金として生活費を稼ぎ、人を雇って事業をする場合には私企業であれば、多くの場合、最大利潤をあげようとする。私は、今回の同友会大学を受講しながら、何のために働くのだろうと考えた。
そして、働く意味 をこれまでの“金銭を得る手段”であると同時に“人とつながる手段”に
もっとウエイトを傾けていく時代になってきたのではないか、と感じた。 それは、商品としての労働と人間労働との矛盾だと思う。
受講中、平行して読んだ「生かされていきる」(平山郁夫著:角川文庫)で、平山氏と対談されていた方が、人生で必要なのは「仏・法・僧」だと
話されていた。仏は人生の師(モデル)であり、法は人生のテーマであり、僧は人生の友であるという。何となく心に残りながら、現代は要求が多様化しているという風潮があるがそんな言葉で流したくはない人間本来の要求がここに示されていると考える。
私の人生は、もう少し残されているようだ。70年間、何とか自立した生活ができるとするならば、あと30年ほどである。その内、気力・体力
を考えると、それほども時間はない。講義のなかで、「大いなる未完を残して去る」と高名な画家が言ったと紹介された。私に残すものはないが、 多くの無名の人々とあれこれ議論を交わしながらこの世からなくなるまで愉快に生きたい。