はった 治田<上野市>現伊賀市 [古代] 治田村 [中世] 治田村 [近世] 治田村 [近代] 治田 |
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治田ふれあいプラザ外観 | 平成21年3月21日 治田ふれあいプラザ竣工式 内保市長・森岡議長とともにテープカットをする今矢区長 |
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和室(10畳+10畳) | ホール(180平方メートル) | |
【左利きの画家 治田美山】 日本画家の治田美山(本名・重男)は、明治31年(1898年)3月25日、当時の名賀郡花垣村大字治田152番屋敷で、養蚕と桑苗の販売の商をしていた柳吉といとゑの長男として生まれた。のち弟5人妹1人が生まれて、俗に言う「七福人」の総領となった。 十歳の時に不慮の爆発事故で右手首から先を失った。火薬類の爆発事故に遭ったらしいが、このため終生和服姿で過ごすこととなった。 大正元年(1912年)、重男14歳の時、父・柳吉は妻子を連れてこの地を離れ、朝鮮に渡った。最初は仁川で、のち京城に移った。 上野市(現伊賀市)治田の地蔵寺(現廃寺)墓地に残る「治田家累代の碑」(大正2年2月建立)には、友人・市田枕水が撰した治田家の由緒書と共に、「渡鮮者」として「治田柳吉、いとゑ、重男、利憲、きく江、和一」の名が刻まれている。 4男、5男、6男はいずれも渡鮮後に現地で生まれている。 大正3年(1914年)、十六歳の重男は、絵の勉強をするため、単身日本に帰り、大阪府堺市の某寺のお堂で寝泊まりしながら絵の修業を始めた。 その後、京都・下鴨神社(賀茂御祖神社)の西に居を移し、日本画家・庄田鶴友に師事した。 鶴友は文展で入選6回、褒状5回、帝展推薦出品し、のちの自由画壇の同人となった著名な画家。 重男はこの頃、玉城と号していた。 大正14年(1925年)、27歳の時、島ヶ原村の岩佐はなと結婚。 居を山科に移して、左手で主に花鳥、山水、人物などを描いていたが、戦時中は一時制作活動を中断した。 昭和18年5月に描いた大和室生寺の風景画は、京都五条天神社(下京区天神前町)に納められている。 戦後はたびたび出身地の上野市治田や予野、その隣村・奈良県月ヶ瀬村石打(現奈良市)、母の実家のある上野市大滝などを訪れ、乞われて襖絵などを描いた。 |
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[治田薬師寺にある襖絵] | [治田O氏宅の軸] | |
治田の薬師寺には松と群鶴を描いた襖絵が残されているが、左利きの美山が描く動物は、右向きの構図となっている。 官展などにおける華々しい入賞歴は不明であるが、無欲で儲けることをしなかった。 亡くなる数年前のこと。九州から或る男が山科の美山宅を訪ねてきた。 その男は美山の作品を評価し、九州での公開を勧めた。話し合ってるうちにふたりは意気投合。 その結果、美山は「自宅で死蔵しているよりは、多くの他人様に見てもらえるほうがいい」と言って、作品をそっくり差し上げたという。 昭和32年(1957年)11月30日、山科の自宅で没。 満59歳という若さだった。 |