治 田  Hatta

 はった 治田<上野市>現伊賀市
 名張川の支流治田川流域に位置する。
 南北の谷間を北から南へ流れる治田川の両岸の丘陵地に集落を形成する。
 地名は古代に新しく開いた地という意味から名づけられたと伝わる。
 予野の住民が移住して開いた土地といわれる。(名賀郡史)

 [古代] 治田村
 平安期に見える村名。伊賀国伊賀郡のうち。猪田郷に属す。
 天喜4年2月23日の藤原実遠所領譲状案の伊賀郡猪田郷の項に「西限治田村」と見える(東南院文書/平遺763)。
 伝領関係などは未詳。

 [中世] 治田村
 戦国期に見える村名。伊賀郡のうち。波田とも書く。
 天文年間と推定される一宮頭役次第注文案に「御的立<波田>菊田殿」とあり、土豪に菊田氏の名も見える(三国地誌)。
 菊田氏の砦であったと伝えられる砦跡は現在も上野市白樫(現伊賀市白樫)に残る(三重の中世城館)。
 また天正3年の「家久君上京日記」によれば、津島家久は伊勢参詣の帰路、青山峠・古山を経て治田村に至り、「くうや次郎左衛門といへるもの」の家に一泊している(薩摩旧記雑録後編2)。

 [近世] 治田村
 江戸期〜明治22年の村名。伊賀郡のうち。はじめ伊賀上野藩領、慶長13年からは津藩領。
 村高は、天和年間頃の本高1,047石余・平高1,241石余(統集懐録)、「宗石史」1,047石余、「天保郷帳」1,105石余、「旧高旧領」1,106石余。
 元禄9年の「伊賀給地村高帳」によれば、平高のうち116石は土田桜右ヱ門、78石は滝野与三右ヱ門、80石は狛田小左ヱ門の給地。
 寛延年間頃の家数123・人数535、馬13・牛5(宗国史)。
 寺社は、真言宗豊山派薬師寺・薬師寺末寺長福寺、村社黒滝神社がある。
 同社は一条院の時予野池辺より勧請といい(伊水温故)、明治41年八幡神社に合祀された。長福寺は廃寺となった。
 明治4年安濃津(あのつ)県、同5年三重県に所属。同22年花垣村の大字となる。

 [近代] 治田
 明治22年〜現在の大字名。はじめ花垣村、昭和30年からは上野市の大字。
 明治22年の戸数140・人口648、田80町・畑58町(町村分合取調書)。
 昭和35年の世帯数135・人口627。
 同44年に完成の高山ダムのため水田12ha、民家37戸、小学校などが水没した。
 補償により総合庁舎が建てられた。
 同41年から3年、農業構造改善事業として茶栽培が実施され、現在では地区の農産物の主生産品になっている。
 昭和40年に名阪国道が開通し、地内に治田インターチェンジが開設され交通の便も良くなった。

治田ふれあいプラザ外観 平成21年3月21日 治田ふれあいプラザ竣工式
内保市長・森岡議長とともにテープカットをする今矢区長
和室(10畳+10畳) ホール(180平方メートル)
【左利きの画家 治田美山】
 日本画家の治田美山(本名・重男)は、明治31年(1898年)3月25日、当時の名賀郡花垣村大字治田152番屋敷で、養蚕と桑苗の販売の商をしていた柳吉といとゑの長男として生まれた。のち弟5人妹1人が生まれて、俗に言う「七福人」の総領となった。
 十歳の時に不慮の爆発事故で右手首から先を失った。火薬類の爆発事故に遭ったらしいが、このため終生和服姿で過ごすこととなった。
 大正元年(1912年)、重男14歳の時、父・柳吉は妻子を連れてこの地を離れ、朝鮮に渡った。最初は仁川で、のち京城に移った。
 上野市(現伊賀市)治田の地蔵寺(現廃寺)墓地に残る「治田家累代の碑」(大正2年2月建立)には、友人・市田枕水が撰した治田家の由緒書と共に、「渡鮮者」として「治田柳吉、いとゑ、重男、利憲、きく江、和一」の名が刻まれている。
 4男、5男、6男はいずれも渡鮮後に現地で生まれている。
 大正3年(1914年)、十六歳の重男は、絵の勉強をするため、単身日本に帰り、大阪府堺市の某寺のお堂で寝泊まりしながら絵の修業を始めた。
 その後、京都・下鴨神社(賀茂御祖神社)の西に居を移し、日本画家・庄田鶴友に師事した。
 鶴友は文展で入選6回、褒状5回、帝展推薦出品し、のちの自由画壇の同人となった著名な画家。
 重男はこの頃、玉城と号していた。
 大正14年(1925年)、27歳の時、島ヶ原村の岩佐はなと結婚。
 居を山科に移して、左手で主に花鳥、山水、人物などを描いていたが、戦時中は一時制作活動を中断した。
 昭和18年5月に描いた大和室生寺の風景画は、京都五条天神社(下京区天神前町)に納められている。
 戦後はたびたび出身地の上野市治田や予野、その隣村・奈良県月ヶ瀬村石打(現奈良市)、母の実家のある上野市大滝などを訪れ、乞われて襖絵などを描いた。

[治田薬師寺にある襖絵] [治田O氏宅の軸]
 治田の薬師寺には松と群鶴を描いた襖絵が残されているが、左利きの美山が描く動物は、右向きの構図となっている。
 官展などにおける華々しい入賞歴は不明であるが、無欲で儲けることをしなかった。
 亡くなる数年前のこと。九州から或る男が山科の美山宅を訪ねてきた。
 その男は美山の作品を評価し、九州での公開を勧めた。話し合ってるうちにふたりは意気投合。
 その結果、美山は「自宅で死蔵しているよりは、多くの他人様に見てもらえるほうがいい」と言って、作品をそっくり差し上げたという。
 昭和32年(1957年)11月30日、山科の自宅で没。
 満59歳という若さだった。


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