平成10年2月21日に、生涯学習の一環として、福井健二 先生に来て頂き、「花垣地区の城」という演題で講演していただきました。
その時の資料です。
伊賀の中世城館解説 | |
城とは姫路城や名古屋城の天守閣、大阪城や上野城にみられる高い石垣を連想する。 しかしこれらの城は、江戸期すなわち近世の城である。 中世とは1185年、鎌倉幕府成立期から、南北朝、室町、戦国時代までをいう。 この時代に築かれた城や館を中世城館と呼ぶ。 城という字は「土」と「成」からなっているように、土を掘り、その土を内側に盛り上げたものをいう。 源頼朝の武家政治は、貴族政治を根本的に改革、在地土豪は荘園領主から独立を図り、勢力拡大をも図りつつ武士の拠点として城や館が築かれて発展、各地に小さな城塞が築かれた。 伊賀には東大寺の荘園が多くあったが、伊勢平氏の進出は荘園名主や一族郎党の武装化に拍車を掛け、地方武士の発展をもたらした。 伊賀国衆と呼ばれ、村の支配者となった土豪は、一族郎党を従え農業経営にあたると共に、外敵に対しては武器をとって立ち上がる小軍団を形成し、自領を守るため城や館を構築するようになった。 在地領主となった土豪は、自領支配を目的に住居を中心とした城館を構築、平地では居住に重点をおいた方形館が築かれ、丘陵地でも居住に主をおいたので城といった機能より、館(屋敷)といった機能を強く求めた結果、館の縄張りを丘陵に持ち上げた形となった。 戦国期には城としての機能を取り入れ改築を図ったものや新しい城がみられる。 城館の調査として、古城、城山、殿山、要害、城屋敷、殿屋敷、城の腰、城ノ下、城中、城乃内、垣内、溝、堀之内、堀などの地名や呼称、通称、伝承により調査し、文献としては宝暦年間(1751〜64)に編纂された『三国地志』巻六十七古蹟の項に堡、営址、宅址等と記載されていて、これを中心に調査。 城の分類として福井健二先生は『上野市の古城』(昭和50年8月刊)のなかで『三国地志』記載の城を次のように分類している。 1、城…敵の攻撃を防ぐため土塁、石垣、堀、柵等の軍事的構築物で防衛されたもの。 2、堡…城の小規模なもので、伊賀では土豪が丘陵や小山に設けた城屋敷や詰めの城を呼ぶ。 3、砦…本城に対する出城や見張り台等、臨時の小規模な城を呼ぶ。 4、宅址…土豪屋敷に土塁や堀をめぐらしたもの、伊賀では規模が小さいので館と呼ばず宅址と呼ぶ。 5、営址…攻撃の為臨時に築いた城、駐屯地、陣所などを呼ぶ。 構築方法としては 1、掻揚形式…平地や丘陵の平坦部に設けられたものに多く、周囲に堀をめぐらし、この堀の土を内部に盛り上げて土塁としたもの。 2、切込形式…丘端や丘腹の斜面を利用して設けたものに多く、後方の堀や内部の土を切り込み、土塁や堀としたもの。 3、掻揚切込形式…丘端や丘腹に設けたものに多く、平地部は掻揚、丘腹部は切り込み式を用いたもの。 4、削平形式…丘頂や山頂に多く、地形から土塁を設ける場所が無いものは削平して平坦地とし、後方に堀切を設けたもの。 ☆曲輪…城の内部、平地を曲輪(くるわ)、郭(かく)と呼ぶ。中世の城では規格が小さく中心の曲輪を本丸と呼ばず本郭、主郭と呼んでいる。 |
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上132 遺跡番号 県 4097 市271 白樫氏館 伊賀市白樫字村内1274 『三国地志』に白樫氏宅址とあり、高田氏館の東の丘陵端にあり、切り込みの二郭からなり土塁の一部が残る。 |
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上133 遺跡番号 県 4096 市270 高田氏館 伊賀市白樫字村内1248 『伊乱記』に活躍がみられる白樫村高田一族の館で、宝蔵院流高田派槍術家高田又兵衛を輩出、館は三方を切り込み、土塁や空堀をが残る。 |
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上134 遺跡番号 県 4099 市273 山極氏館 伊賀市白樫字北出1493 『伊乱記』に山極七兵衛の名がみえる。この山極氏の館は北側に堀切と半壊の土塁が残る。東側の空堀は巾も広く深い。現在は子孫宅となっている。 |
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上135 遺跡番号 県 4100 市274 菊田氏砦 伊賀市白樫字北出1513 慈尊寺の西隣の丘陵端に小型ではあるが、背後の土塁や堀切が良く残る砦跡がある。 これは詰城であって南下の民家の位置に館があったと考えられる。『三国地志』の菊田氏宅址であろう。 |
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上136 遺跡番号 県 6960 市489 藤島氏館 伊賀市白樫字中島 地区の南の大地にあって「トシマ屋敷」と呼ぶ。『三国地志』の藤島氏宅址で、現在は畑となり遺構はない。 |
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上137 遺跡番号 県8492 市719 治田氏城 伊賀市治田字東ヶ谷 治田地区の西端、眼下に名張川が流れる丘端に築かれている。通称上屋敷は畑に、通称下屋敷には土塁の一部が残る。 |
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上138 遺跡番号 県8493 市720 市田氏館 伊賀市治田字馬場出 楠左馬正儀六代の孫、市田高成が当地に土着したと伝え、代々市田与左衛門を称した。 子孫宅の四方に土塁がめぐっていたが、昭和45年(1970)に取り壊されたという。 |
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上139 遺跡番号 県11102 市1083 泰羅氏館 伊賀市治田字小谷 地区の東、子孫宅の裏の台地にあったが、現在は遺構がなく畑や山林となっている。 |
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上140 遺跡番号 県 4118 市292 筒井氏城 伊賀市予野字尼ヶ谷 三重、奈良県境の通称筒城山の山頂にあり、眼下を名張川、花前川が流れる要害の位置にあり、伊賀乱に筒井順慶の軍が陣所とした城で、二郭の平地とわずかながら空堀がみられる。 |
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上141 遺跡番号 県4108 市282 吹井氏城 伊賀市予野字西之谷3646 通称「西出の構」と呼び、三方土塁と空堀がめぐる二郭形式で、『伊乱記』にみえる吹井大三郎の城と伝える。 |
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上142 遺跡番号 県 6020 市 456 萱氏館 伊賀市予野字天満1984 通称、萱殿※屋敷と呼ばれる民家があり、南と西に鍵型に土塁が残る。 『三国地志』にみえる萱氏宅址で、伝承によると源有綱が薦生(名張市)で敗れ当館に逃れたと伝える。 ※(カイドン) |
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上143 遺跡番号 県 4116 市290 千部氏館 伊賀市予野字千部 『伊乱記』にみえる千部氏の館で、小字千部の最高所を千部殿屋敷と呼ぶが遺構はなく水田となっている。 |
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上144 遺跡番号 県 4107 市 281 杉山八郎城 伊賀市予野字守田前9623他 『三国地志』に杉山八三郎堡とみえ、城山と呼ばれる丘陵端に四方土塁、三方空堀の主郭と一段下に二つの郭をもつ、遺構を良く残した城である。 |
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上145 遺跡番号 県 4106 市 280 山中氏城 伊賀市予野字城之谷9388 『三国地志』の山中氏堡で、舌状丘陵端に築かれていたが、現在は畑となり遺構なし。 |
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上146 遺跡番号 県 4104 市 278 荘賀富之助城 伊賀市予野字前出9081 立正寺の西に続く丘陵端を切り込んで城としたもので、西側に土塁の痕跡が残る。 『三国地志』には荘賀富之助宅址とある。 |
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上147 遺跡番号 県 4103 市 277 木原氏城 伊賀市予野字前出8977他 四方土塁の主格を中心に、東に土塁と空堀をもつ三段の曲輪と西に二段の曲輪のある大規模な中世城館である。 |
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上148 遺跡番号 県 4102 市 276 浅井氏城 伊賀市予野字上出8723他 『三国地志』に、「浅井氏堡 按、佐々木家臣浅井弥次郎之に拠る」とあり、木原氏城と堀をはさんで隣接する。 背後に空堀をもつ二方土塁の主郭と、一段下と東にも曲輪をもつ城。 |
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上149 遺跡番号 県4101 市275 千賀地氏城 伊賀市予野字上出 服部一族は千賀地谷に住み千賀地氏を名乗ったという。 地区の北側の丘陵上に東、北、西の三方に土塁がめぐり、北の土塁上には見張り台がある。 北背後の丘陵を掘り切って城を独立させている。 場内には服部半蔵、藤堂采女誕生地の碑が建っている。 |
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上150 遺跡番号 県 4109 市 283 一条氏館 伊賀市予野字馬田8652 通称、一条殿※屋敷と呼ぶ丘陵丘陵切り込み、二郭形式の館で、城主一条氏については不明。 ※(イッチョド) |
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上151 遺跡番号 県 4110 市 284 小殿館 伊賀市予野字馬田8552 「小殿宅址」と呼ばれる館は、一条殿屋敷の西隣りの丘陵にあったが、畑となり遺構はみられない。 |
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上152 遺跡番号 県 4111 市 285 勝島氏城 伊賀市予野字馬田 『伊乱記』の柏原合戦に予野村勝島氏の名がみえ、城山と呼ぶ丘陵に四方土塁と三方を空堀がめぐる。 北東隅の土塁上に、土塁に囲まれた見張り台と思われる遺構がある。 |
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上153 遺跡番号 県 4113 市 287 柏尾城 伊賀市予野字柏尾66 花垣神社の南の字柏尾の丘頂に城があったと伝えるが、遺構はなく伝承のみ。 |
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上154 遺跡番号 県 4115 市 289 鷹岡氏城 伊賀市予野字福澤 『三国地志』の鷹岡氏堡で、丘陵の縁を切り込んで築かれていたが、わずかに土塁と空堀の痕跡が残る。 |
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上170 遺跡番号 県 4119 市 293 大滝城 伊賀市大滝字東和正 地区の東の山頂を城山と呼ぶが遺構はなく、東に寄った位置に平地と空堀があり、北に下ったところに三方切り込みの平地がある。 峰続きの西山頂を福城(フクンジョ)と呼ぶ。 |
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上171 遺跡番号 県4120 市294 藤原氏城 伊賀市桂字美祢73 通称、巽城と呼ばれる宅地の南裏に、御城出と呼ぶ平地があり西側に22m程の土塁が残る。 城主は藤原氏と伝えるが詳細は不明。 |
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不明城館 予野 槙氏宅址 (三国地志) |
生涯学習 郷土花垣 資料
「花垣地区の城」より
平成10年2月21日
福井健二 先生 作成