予野 yono
よの 予野<上野市>現伊賀市
 余野とも書いた。名張川の支流、予野川上流部に位置する。
 花前川の両岸の緩やかな丘陵地に集落が広がる。
 奈良期から奈良の興福寺に八重桜を度々献納し、公事免許を受けたという伝承があり(伊水温故)、現在も花垣神社の東方には樹高10m余の八重桜がある。
 [中世] 予野荘  鎌倉期から見える荘園名。伊賀国名賀郡のうち。猪田郷に属す。花垣荘ともいう。
 天養元年3月29日の太政官符案に「又猪田郡(郷カ)内予野村公田卅余町、怱号興福寺西金堂領、同不輸租調」とあり、平安末期予野村に興福寺の支配が及んでいたことが知られる。(三国地誌/平遺2525)。
 やがて「東円堂(興福寺)兼春日御領」の荘園となるが、後に立荘について、荘官・百姓らは「当庄者、甲乙諸人山野開発之後、旦為滅罪生善、旦為募仏神威、所令寄入東円堂修造用途井 春日若宮御祭御供以下所□(司カ)・三綱・神宮楽所仲綱・仕丁・宮幣使神人等一会餐膳酒肴等用途也」と述べている(福智院家古文書)。
 荘民の伊勢役夫工米の対捍を藤原長者に訴えた安貞2年3月日の伊賀国役夫工米催使解に「興福寺領・・・・・予野庄等」とあるのが初見で、田地は54町1反120歩。
 地頭も置かれ、当時は北条時房であった(大和春日神社文書/鎌遺3737)。
 延応元年4月のころ西隣の春日社領大和国藤井荘の牛が数頭荘内に入り作麦を食い荒らしたため、荘民がこれを捕らえたところ、藤井荘側から牛盗人と訴えられ、この問題は両荘の間の相論にまで発展した(福智院家古文書)。
 また、文永2年には百姓らが地頭(地頭代)の非法を興福寺に訴え、衆徒の命により、地頭の新儀の課役を停止する旨の春日若宮政所下文が出されている。
 この下文の充所は「御社領予野庄沙汰人・白人神人等」となっており、当荘に白人神人の組織があったことが知られる(中臣祐賢記文永2年2月21日条/鎌遺9221)。
 なお、当荘については「沙石集」(芳心アル人ノ事)に著名な起源伝承が見える。それによると、「奈良ノ都ノ八重ノ桜」として有名であった興福寺の桜を上東門院彰子が寺の別当に命じて京に運ばせようとしたところ、大衆が憤慨して別当を追放せよと騒いだため、風流心に感じた彰子は「伊賀国余野ト云庄ヲヨセテ、花ガキノ庄ト名ヅケテ、カキヨセサセラレ、花ノサカリ七日、宿直ヲ置テ是ヲ守ラセ」たという。
 この伝承の流布にともない、当地は花垣荘・花埴(垣)郷とも呼ばれたようで、嘉吉元年4月16日の興福寺官務牒疏に「菩提樹院、在同(伊賀)郡花埴郷」と見える(寺誌叢書3)。
 [近世]予野郷  江戸期の郷名。伊賀郡のうち。予野村を中心とした一帯の広域的な総称で、東は古山郷と接する。現在の上野市の西南部の山間地にあたる。
 所属した村は「伊水温故」「三国地誌」では予野・治田(はった)・白樫・大滝(おおだい)・桂の5か村、「宗国史」ではこれに笠部・新田の2か村を加え、また、予野村を予野上村・予野下村の2か村に文載して計8か村とする。なお、笠部村は「三国地誌」では依那具郷に属するとされる。
 [近世]予野村  江戸期〜明治22年の村名。伊賀郡のうち。はじめ伊賀上野藩領、慶長13年からは津藩領。
 村内は上予野村・下予野村と分けられることもあり、「旧高旧領」には、この2か村として見える。
 また、予野上村・予野下村とも称し、現在の花垣小学校付近から東を上村、西を下村としたと伝わる。
 村高は、天和年間頃の本高1,437石余・平高1,250石、うち上予野村711石余、下予野村538石余(統集懐録)、「宗国史」818石余、「天保郷帳」1,459石余、「旧高旧領」では上予野村836石余、下予野村620石余。元禄9年「伊賀給地村高帳」によれば、平高のうち982石余は藤堂采女、267石余は藤堂伊織の給地。
 寛延年間頃の家数192(うち上予野村130・下予野村62)・人数869(うち上予野村584・下予野村285)、馬16(うち上予野村8、下予野村8)、牛は上予野村27(宗国史)。
 寺社は日蓮宗立正寺、予野上村の真言宗豊山派池辺寺、のちに廃寺となった天台宗盛宗来迎寺、春日神社がある。
 同社は後に予野・大滝・桂の3か村の村社を合祀して三郷神社と改称し、現在は花垣神社と称す。
 元禄3年当地を訪れた松尾芭蕉は「一里はみな花守の子孫かや」と詠んだという。
 徳川家康の家臣として、与力30騎・伊賀同心200人を支配下におき、旗本8,000石であった服部半蔵(千賀地半蔵ともいう)は当地の出身。
 また、城代家老藤堂采女は当地の出身で、当地は采女家の給地である。
 明治4年安濃津(あのつ)県、同5年三重県に所属。同22年花垣村の大字となる。
 [近代]予野  明治22年〜現在の大字名。はじめ花垣村、昭和30年からは上野市の大字。(現伊賀市)
 明治22年の戸数187・人口811、田142町・畑61町(町村分合取調書)。
 昭和35年の世帯数191・人口866。明治25年花垣村第一尋常小学校を設立。

予野区公民館(平成20年10月13日竣工)
予野区のほぼ中央に位置し、JA上野西総合支店(はながきふれあい店)の西側、前出小場と廣出小場の間に建つ新・予野区公民館
 竣工予野多目的ホール 桜の里「和」(なごみ)(平成23年12月7日)
建物の外観 玄関ホール 室内の様子(約60畳) 隣にあるキッチン
予野班消防ポンプ庫
ポンプ庫外観 隣に併設された和室 庫内部の様子
【花垣神社】
 花垣神社のその昔は池辺社・弁財天であったと考えられるが、八重桜を都へ献上した縁で、寛弘元年(1004))奈良の春日宮を勧請した。その後は池辺社、春日社をともに祭祀してきた。
 神社の棟札によれば、寛永二年(1624)予野出身の城代家老 藤堂采女によって池辺社、春日社が再建された。
 池辺宮奉加帳筆頭により、藤堂家藩主より奉納があったようである。
 西蓮寺過去帳より、後の慶安元年(1648)には春日社を上葺、寛保四年(1744)には池辺社の拝殿を、寛延三年(1750)には楼鐘堂が藤堂采女の曾孫の藤堂元甫、玄孫の元社によって建立され、同時に藤原元甫は絶えていなかった八重桜
を奈良から取り寄せ、移植している。(※八重桜については花垣のヤエザクラを参照)
 天保六年(1835)鳥居の再建、江戸時代の万延元年(1860)の上葺、彩画修理の棟札にも藤堂采女の名前が記され、江戸末期まで度々支援を受けていたことが窺われる。
 又、隣の池邊寺は池辺社、春日社の別当寺であったことが棟札より推察することができる。
 明治41年(1908)神道統合によって、予野、大滝、桂、三村の神社、新祀を合祀して三郷神社となり、昭和5年(1930)からは花垣神社と名称を替え、御大記念事業として、正殿葺替え、西側石垣、透塀の新築、勾欄付階段の新築、新撰殿を西方に移転、東方に賽殿を新築などの大改修が行われている。
 昭和20年(1954)以降に大滝・建部神社、桂・乎美祢神社が地元に分祀し、予野は春日神社を主神とした花垣神社として現在に至る。
「花垣の史跡・城跡」平成19年3月版・花垣歴史研究会編纂 より一部訂正して抜粋)

西岡利三
 昭和初期に起こった農業恐慌は激しさを極め、当時の農民や農家は破産等、極度の経営不審に陥った。
 そこで、村の有志が集まり農業で生計をたてることや、現金収入の道を模索するため、議論された。
 その時、西岡利三氏(当時造り酒屋を経営)が農業用ため池(
唐川池(からこいけ))を造成し、農業用水を確保し、農地(水田)を造成することにより、この工事に農民が参加し、現金収入の一助になることを確信し、県に働きかけ県より補助金を受けることになった。
 当時は県庁に行くにも交通の便は悪く、大変苦労されたことであったと聞く。
 県への申請は用水地・用水路の造成、水田の開発が主であった。
 この事業に対する県からの補助は六万円、工期は昭和八年から十年の二ヶ年であったが、多少工期は遅れたり、県の予算が付きにくくなったりし、旧田への送水路は一部中止、山を開いての開田も一部中止ととなった。また、工事費も不足を生じた。
 このとき、発起人の西岡利三氏が資材を投じて事業の遂行にあたった。(造り酒屋も廃業)
 構造物としては、堤防の底辺約90m、堤防の長さ約95m、堤防側面高約45mである。
 水路は本線約2000m、支線約1500m、トンネルは4ヶ所である。
 開田面積約3ha(一部中止となり予定より少なくなった)、旧田用水供給面積約2,5haである。
 工事の関係ではほとんどが手作業で、モッコ、スコップ、ショベル、つるはしの作業であり、機械といえば堤防の鎮圧機一台だけで、トロッコ3台、工事資材運搬は牛車、作業人日当平均38銭(当時、酒一升85銭)であった。
 当時、この開田に63戸が耕作していたが(すべて鍬、鋤の作業であった)農業も機械化するにつれて、造成された開田はあまりにも小さいため機械化作業は困難となり、耕作を中止あるいは放棄されている。
 現在、25a位を3戸が耕作しているにすぎない。
 旧田への水補給も青蓮寺用水が利用されて、この池の水利用は極端に少なくなっている現在、今後の池管理をどうするかが課題となっている。
(「花垣の史跡・城跡」平成19年3月版・花垣歴史研究会編纂 より抜粋)

平成25年花垣神社祈年祭 (2013.2.17)
祈年祭に参加する皆さん 今回寄贈して頂いたポールの前で森中史郎氏による国旗掲揚 花垣神社御祭神図の前で、岡崎総代長、森中画伯、花垣神社池田宮司 奉納が終わり祈年祭が始まる
 平成25年2月17日(日)花垣神社の祈年祭(稲の豊作と産業の発展を願う御祭)に先立ち、米寿を迎えられた 森中史郎 さんと総代の皆さんにより国旗掲揚ポールを、また80歳の節目にあたり画家の森中喬章さんより拝殿に飾る御神祭図の額を寄贈していただき、そのお披露目が行われました。
 この日の様子はケーブルテレビで放送されました。
2月21日付中日新聞に掲載



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