妙にヤツの言い方は気に入らなかった。
「じゃあ、どうなふうに言えばいいのかな」「可愛げがないんだよ。呼んでも素直に答えないしな」
「ぼくが君の言うことを聞かなければならないという義務はない」
ますますイヤなヤツである。オレはこんなヤツと関わり合いになったことを後悔した。
「こっちだって同じさ、せっかく落ち着いた生活をしていたのに君のようににぎやかなヤツが来ちゃ、こっちこそ迷惑だよ」
心の中で考えたことがそのままストレートに伝わっていた。どうやらオレは声を出していたつもりが心の中でヤツと会話をしていたようである。
ためしに「わー」っと叫んでみた。
「声なんて出ないよ。花なんだよ」
「花だって。オレは花なんかじゃない」
「じゃあ何だって言うんだ。君とぼくとはどう考えても同じ花だと思うんだけど。君だって自分と一緒だと思ったからぼくに声を掛けてきたんだろ」
「違う。オレは人間さ」
「人間」
一拍間があいて笑い声が響いてきた。不思議なもので花も人間と同じ笑い声で笑うのであった。
「歩くこともできない。声に出して話をすることも出来ない。おまけに犬のオシッコを避けることも出来ない人間なんてこの世の中にいるもんか」
こいつはオレが犬にオシッコを掛けられたのを見ていたのだ。何て趣味の悪いヤツなんだ。
「花なんだから仕方がないさ」
またもやオレの心の中を勝手に読みやがった。
「勝手に心の中を覗くなよ」
「花同士波長が合うんだから仕方がないよ」「じゃあ、どうしてオレはお前の考えてることが読めないんだ」
「ぼくの考えだって?何も考えないさ花なんだから。花に考えなんて必要ないだろ、君の方がおかしいんだよ」
結局この生意気なヤツからは何の情報も得ることができなかった。ここがどこなのかもヤツは知らないようである。
ますます気が滅入ってくるだけなのでオレは何も考えず黙り込むことにした。なるほどヤツが言うように何も考えない状態というのは案外リラックスできるものなのである。
半時間程すると先程のオシッコ犬がやって来た。正面から見る犬は明らかにアホ面をしており知性の欠片も見られなかった。やっぱりノー天気に嬉しそうな顔をしている。
何やら緊張が伝わってきた。アホ犬は焦ってもいた。犬の困った顔というものを間近で見てしまった。
しきりに匂いを嗅いでいる。先程のオシッコの時とは明らかに緊張感に違いがある。
アホ犬はオレとヤツの間を行ったり来たりし始めた。気になって仕方がない。
オレは我が身に迫る非常にマズイ結果を薄々感じていた。考えたくはないがそれしかない。
アホ犬はオレに背中を向けると恥ずかしそうに後ろ足を折り曲げた。オレの目の前でアホ犬の肛門が大きく開く。
ゲッ。
山盛りのクソ。「クッソー」などとつまらない駄洒落を思い浮かべている時ではない。 出来たてホヤホヤのクソからはモウモウと湯気が立ち登っていた。
その湯気がオレに向かってやって来る。匂いは既にオレの鼻に到達しており、吐きそうな匂いである。その上さらに湯気まで嗅ぎたくはない。最高の拷問に近かった。こんなシチュエーションなら隠れキリシタンも直ぐに白状するだろう。それどころか両手を摺り合わせて南無阿弥陀仏と仏さんにおすがりするだろう。
無神論者のオレではあったが風向きが変わるのを祈り続けた。不思議なもので最後には「お母さーん」と叫んでいた。アメリカの戦艦に突入する神風特攻隊の気持ちが痛いほどわかった。
少年の頃、夏の暑い日にボールを追いかけ草むらに入った途端、目の前が真っ暗になるほどの蚊の大軍に襲われたことがある。ヤツらは「いやーラッキー」とばかりに狂喜乱舞し、口といわず鼻といわず至る所に襲いかかってきた。
パニックになったオレは逃げる事を忘れてひたすら口や鼻から蚊が入ってくるのを阻止するために息を止めてガマンしていた。
その時と同じ状況である。
どのくらい息が続くか、花になったオレは長時間息を止めることができることを知った。
人間であった時のように胸を掻きむしるような息苦しさは感じない。
まだまだ止めていられると判断すると随分落ち着いてきた。周りを眺める余裕すら出てきた。相変わらずクソから湯気は立っているが最初の時ほどひどくはない。匂いはともかく湯気が収まるのは時間の問題であると思われた。さらに、ラッキーなことに風向きが微妙に変化をし、オレに直撃することはなくなっていた。
安心したオレであったが、次の瞬間オレは気絶しそうなくらい壮絶な現実を見た。
何とオレの手、つまり葉っぱの産毛に湯気がまとわりつき水滴となってくっ付いていたのだった。ウンコ水を身に纏ったオレなのである。
悲惨な光景にオレは気を失うことを考えた。つまりオレの作戦はこうである。「うわー」とかなんとか言って気を失い、正気に戻ると元の人間に戻っていた。つまり目出度く夢から醒めるということである。
ところが間の悪いことに気絶することはできなかった。
オレって意外としたたでワイルドな男であったのだ。タフでワイルドなんてウンコ水を身に帯びた状況では口幅ったくて言うことはできないが、鈍感であることに間違いはない。
気絶ができないとなると諦めるしか手はない。逆境に挫けず現状を素直に受け止める。オレは案外従順な性格でもあるのだ。しかしこれだけ気持ちの持ち方をコロコロと変えるなんて自分でも妙な男だと思ってしまう。
ヤツはと見るとオレを見て笑っていた。笑う花なんて見たこともないし「どんなだ」と言われると自信はないが、ともかくパニックに陥ったオレを見て笑っているに違いなかった。
「おう、人の不幸がそんなに嬉しいか」
カマを掛けてオレはヤツに行ってやった。
しかし、ヤツからの反応はなかった。
「笑ってるんだろ。ザマミロって思ってるんだろ」
それでもヤツからの反応はない。
「ったく、いいかげんにしろよな」
最後は吐き捨てるように言うが反応の無い相手との会話は空しいだけであった。
それにしても、オレが花になったという異常な出来事以外は全てつじつまが合うというのかリアルな夢である。そろそろ目覚めてもよさそうなのに一向にその気配はない。いいかげん腹が立ってくる。匂いや居心地悪さなんてものまでリアルに感じるなんて出来すぎである。
時間が経つほどに、オレの置かれた状況は時間が解決してくれるとは思えなくなってきた。
雨が降ってきた。最初はポツリポツリと気にもならない雨であったが、次第に雨足は強まり大粒の雨が容赦なくオレに降りかかってきた。いったい誰なんだ、植物は雨が好きだなんて言ったやつは。痛くて痛くて仕方がない。顔が空を向いているだけに雨がまともに顔に直撃してくる。そんな悲惨な状況なのに下半身は元気モコモコである。全てのモノが興奮して立ってきた。産毛やトゲ状のものまでピンピンに上を向いている。
ううっ、顔は痛いが気持ちいい。
まるでムチで打たれて興奮しているマゾ男のようである。
その上、オレの身体に染みこんだ犬のオシッコやウンチの湯気まで雨は洗い流してくれるのだった。人間であった頃には雨はうっとうしくて嫌なものであったが、植物にとってこれほど素晴らしいものであるとは新たな認識である。オレは雨を含む自然現象全てに感謝しようと思った。
と、ここまで謙虚になったのだからそろそろ人間に復活だと思っているのだが、一向にその気配はない。
二時間程雨は降っただろうか、次第に雨足が弱まったと思ったら一気に雨は止んだ。そして雨雲を突き破るかのように太陽が出てきた。ムッとする暑さの登場である。ところが、サウナに似たその熱気が少しも気にならないのだ。それどころか心地よいのである。
ジメッとした暑さと湿気。いかにも不気味な雰囲気である。そう思ったらやっぱりであった。
かなへびが辺りを伺いながらこちらに近付いてきた。オレはハ虫類は大嫌いである。金属質な体面と見るからにヌメッとした感触がどうしても好きになれない。
かなへびは黙りこくったまんまのヤツの所に近付くといきなりヤツの顔、つまり花びらをパクッとくわえてしまった。あっという間の出来事である。オレはその衝撃的な出来事に全身の血が凍り付いたようになってしまった。花初心者のオレにとってあまりにもショッキングな光景であった。
口の端から花びらを少しだけ飛び出させたかなへびはオレの方を振り向いた。一瞬ドキッとする。次はオレの番なのだ。オレも食いちぎられてしまうのだ。ひよっとするとそれがこの夢のエンディングなのかもしれないが、あまりにもムゴすぎる。
それにしても、かなへびは肉食であるはずである。それなのに花を食べるなんて聞いたことがない。多分ヤツは身動きのとれない花という可哀想な種族を弄んでいるのだろう。
お茶目というにはあまりにも残酷なゲームである。
かなへびが近付いてきた。ヤツの皮膚をびっしりと覆っている小さなウロコの一枚一枚までしっかりと確認できる距離に近付いてきた。
かなへびの目からは温かさというものが少しも感じられない。昔シンナーをやり過ぎてイッてしまったヤツの目を見たことがあるが正にそんな目であった。いや、シンナーの場合はトロンとなっているが、かなへびの場合はその中に研ぎ澄まされた狂気を垣間見ることができるのだった。
足がすくむ。しかしオレの足は土の中に埋まったままだからびくともしない。
スローモーションビデオのようにかなへびが近付いてきた、かなへびはオレを食いちぎろうと真っ赤な口を大きく開けた。十七年間のオレの人生の中で今以上のおぞましい風景はないだろう。多分いこれから先もこれ以上の出来事はないだろう。人は死ぬ寸前に走馬燈のように自分の人生を思い出すというがその時のオレはそんなふうに他人事のように第三者の目で現実を捕らえていた。
オレは目を瞑った、と言っても瞼もないから見えないことにして気を逸らしただけなのだが現実から逃避をしたのだ。次の瞬間にはあのおぞましい口の中にオレの顔面が半分以上食いちぎられて苦しむのだろうが、こんな現実を気で迎えることはできなかった。
心の中で「ウワー」っと吠えていた。
時間がゆっくりと過ぎていく。あまりにもゆっくりである。よく人は砂時計の砂が落ちるようにゆっくりと時間は経過したというが、それ以上のゆっくりである。お風呂場の天井に張り付いた水蒸気が小さな集まりとなり、やがて水滴となって落ちてくるようなもどかしい時間の流れである。
オレは自分の顔面に走る激痛を心のどこかで待っていた。決して待ち望んでいるわけではないが、話の流れとしては待っていたわけである。ところが、一向にその瞬間は訪れてはこなかった。
おけは意識を現実に戻した。つまり目の前のかなへびを見たのである。それは本当に勇気のある行為であった。しかし、オレの前にはおぞましいカナヘビの姿はなかった。
アホ犬である。アホ犬のお陰でかなへびは急遽オレの攻撃を取りやめて撤収したのである。
まさに危機一髪であった。
アホ犬さんありがとう。
オレは目の前で相変わらず間抜けな顔をして舌を出しているアホ犬に感謝の気持ちを伝えようとした。
ところが、アホ犬はアホ犬であった。感謝の気持ちを一瞬でも持ったオレがバカであった。
アホ犬はカナヘビを襲撃したのである。まるで猫のように遠い所から動く物体を見つけて『ヤレ嬉しや』と飛び付いてきたのであった。当然かなへびは逃走を企てる。そして、かなへびというのは悲しいかな逃げる際には様々な可能性を選択して逃走コース及び方法を考察するなんてことはしない。希望を持つ前に『これしかない』と断言するかのように己のシッポを切断するのである。
オレの目の前数pのところにのたうち回るかなへびのシッポがあった。
不気味過ぎた。オレの全長と同じ大きさのハ虫類特有の気持ち悪いシッポがニュルニュルとのたうち回っているのである。
「ウワー、うわー、UWAAAAA」
いかなる絶叫マシンに乗っても悲鳴を漏らしたことのないオレが全身全霊渾身の力を振り絞って悲鳴をあげていた。
も・う・い・や・だ。頼むからこんな夢は醒めてくれ。
オレの怒りは絶頂に達した。怒ったところで仕方がないが、オレはブチ切れていた。
今まで、どんなにイヤな事だってこれ程しつこく続いたことはない。失恋した時も時が解決してくれたし、大嫌いな歯医者に行って親知らずを抜いた時も気が付けば痛みは治まっていた。それなのに今回はしつこ過ぎる。
オレはひたすら正気を失おうと努力していた。こんな事ってあるはずはない。どうせ夢から醒めればいつの間にか自然と忘れてしまうんだ。思い出そうとしても思い出せないんだ。だからこれ以上タチの悪い夢に関わっていく必要はないんだ。
そんな気持ちでオレは呆然としていた。
夢の中でオレは一週間以上の時を過ごしていた。かなへびに半分食いちぎられたヤツのように誰かと話をしようなんて気持ちにもなれなかった。三日前にオレの右横で新人が花を咲かせていたが、オレはそいつと話すこともなかった。以前のオレのようにそいつは焦って嘆いていたが、オレはひたすら無視し続けた。
オレの身体に変化が訪れた。
全身から張りが無くなっていた。瑞々しさが失われていた。シワシワっとなっていた。ついに萎む時が来たのだ。自分の口臭で落ち込む男のようにオレは自分の顔面から発散する悪臭に顔を歪めていた。しかしそれも夢の中の出来事だからと自分を納得させてガマンしていた。
オレの顔から一枚、また一枚と花びらが散っていった。土に埋まっていた足にも力が入らない。すぐにヨタッと崩れ落ちそうになる。
つまり死期を迎えているのだ。だがオレは穏やかな気持ちでその瞬間を待っていた。だってその瞬間の向こうには人間のオレが待っているのだから。
そしてオレは穏やかに息を引き取った。
ようやく長かった眠りから目覚める時が来たのである。
あれっ。
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