会員スピーチ
- 伊賀の祭りと食文化(L.新居遠一)
- 芭蕉の生母について(L.中西純男)
- 松尾芭蕉の出生について (L.中西純男)
伊賀の祭りと食文化 L.新居遠一 伊賀の祭りといえば、上野天神秋祭を思い描きますが、祭りは各所で行われ「似て非なる祭り」が行われています。
「祭りと食文化」と表題を定めましたので、人々が食するだけでなく、神様に饗するそれがありますので、神・人一緒にいただく、上野市西山の春日神社木生神の秋、十月十四日、十五日未明に行われる祭りを紹介致します。
世間では、茄子祭りと呼びます。茄子の皮をむいて角切りにし、石臼でひいた味噌を加えて、水を一切用いず煮込んだのが一品。
そして、普通米を蒸して筵で包み、搗くというより叩いたご飯一品、この叩く作業は、多くの人々が見守る中で行われ、伊勢音頭らしきもの(歌詞は別)を歌い囃します。数名の者一人ニ十回程度叩きます。そのでき上がったご飯は、一合桝程の大きさに形作り、四隅を少し積み上げてあります。
次に竹筒に先の米のトギ汁を入れた物一品(これは神様のみ)、最後にお酒。以上が神前にお供えされます。
終わって参集した者一同座に着いて、味噌煮込みの茄子一皿、四隅を積み上げた饗(※注あり)、そしてお酒をいただきます。前夜の八時頃始まって、座につくのが未明の六時頃です。
皆集まっていただく折の座頭の代表の挨拶の一文を紹介しますと、
『どなた様も凡そ見えまして御座いましょうかな、見えましたならば御供酒(ゴクミキ)を廻しとう存じますから座作りを願いとう存じます。
どなた様にも御供酒は一遍通りまして御座いましょな、通らんお方は通らんと仰せ下さいませ。』
等々、一品ごとに挨拶が有ります。大和言葉に近いでしょうか、俗語といいますか、不思議な響きが有ります。最後の挨拶は、
『どなた様にも萬歳楽の御酒(オミキ)は一遍通りまして御座いましょかな、通らんお方は通らんと仰せ下さいませ。』
そして、ぐっと飲んで万歳で終わりです。
これで祭りの饗応が終わりとなりますが、茄子は何故使うのでしょうか。諸説有りますが読まれた皆様、如何様に考えられますか。
2004年は芭蕉生誕360年になります。
芭蕉シリーズ第2回として今回は芭蕉の生母について考察してみます。
- (A)芭蕉の母
- 法名 梅月妙松信女
元和二年六月二十日逝去(七十五才)
菩提寺 愛染院願成寺(伊賀上野)
芭蕉の母は四国の愛媛県(伊予の国)生誕は定説となっていますが、伊賀上野の芭蕉の父に嫁ぐまでの経緯が定かではありません。
そこで、私が種々推測してみました。
- 藤堂高虎が伊予から伊賀・安濃津へ家康の命により国替えをしてきた際、藤堂藩の一族郎党の家族として伊賀に来たという説
芭蕉の母が国替えの年に伊予に生まれたとしても、伊賀に移住後芭蕉の父に嫁したとすれば、芭蕉は母の三十七才の子となり、更に三人の妹が生まれているが、当時の婚姻因習からみて考えられない。従ってこの説は不合理である。
- 名張藤堂家の宮内小輔高吉が高虎の国替えから遅れる事十八年、伊予今治から名張に国替えされたが、その際従ってきた一族郎党の娘が芭蕉の母という説
名張へ来た時二十才前後として、翁誕生の際ニ十八才位であるから、年令的には相応しく、芭蕉の兄半左衛門が名張宮内家の家臣の家に任官しており、縁故があったかも知れないし、更に芭蕉の妹が名張の堀内家に嫁いでいる事などからみて、この説の可能性は高い。
- 芭蕉の母は高級武士(藤堂高虎の従弟である五千石の侍大将藤堂新七郎良勝もしくはその子良清)の隠し子であるという説
良勝もしくは良清が高虎の命を受け伊予宇和島へ行っている間に伊予の女性に生ませたのが芭蕉の母であるとすると、
「古里や」
「さまざまの」図版資料
(クリックで拡大表示します。)
- 良清の嫡男良忠の御相手役として厚遇された理由でもあり
- 良忠が二十五才で亡くなるが、その遺髪や位牌を若輩の芭蕉がお家を代表して高野山へ納めに行った大役も納得出来る。
- 元服後の芭蕉が藤七郎・甚七郎と名乗るが、いずれも当主の新七郎家より名をもらっているのではないかと思われる。
- 芭蕉が二十九才で江戸へ行くが、無名の芭蕉の下に杉風や其角など幕府と関係の深い裕福な町人が入門している事も納得出来る。
- 芭蕉の母が松尾家に嫁ぎ新七郎家の下屋敷から百メートルも離れていない場所に住んだのは、その時期良清が二男一女を亡くして三男の良忠が生まれる前にあたり、良清には肉親を少しでも近くに置いておきたい気持ちがあったのではないか。
- 芭蕉が良忠の子探丸を前に詠んだ句
さまざまな事おもいだす桜かな
芭蕉
の意味が血縁関係にあったのであれば理解出来る。
(B)芭蕉は深い母恋の人であった
「野ざらし紀行の旅」(1684〜1685)で故郷伊賀上野への帰り、母の形見の白髪を手にとる場面は次のように記されている。
長月の初、故郷に帰りて北堂の萱草も霜枯れ果て今は跡だになし、何事も昔に替わりて、はらからの髪白く眉白く皺寄りて只命有りてとのみ云て言葉はなきに、このかみの守袋をほどきて母の白髪おがめよ浦島の子が玉手箱汝がまゆもやや老いたりと、しばらくなきて
手にとらば 消んなみだぞ あつき秋の霜
また、これにつづく「笈の小文」の旅(1687〜1688)では
旧里や 臍の緒に泣く としの暮れ
の吟を残していることもよく知られ、芭蕉は「白髪」や「へその緒」という身体の形見をはばかることなく詠みあげています。
芭蕉はまた、自分の母にあてて辞世を書いた日本最初の作家といわれています。有名な「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を詠んだのち翌十月九日に「清滝や波に散込む青松葉」を書きしるし絶筆となりましたが、謡曲「桜川」の筋書に吾が子桜子を拐われて物狂いと化した母が探しに来た東国の桜川で川波に散り込む桜の花びらを哀れに思い、少しでもこれを掬い止めようとする。哀れという他ない所作とともに歌は鳴りひびく。かつて、同じように母を見捨てる形で東国へ去った芭蕉は桜子の化身「桜の花」に倣い「青松葉」に己れ桃青松尾宗房を込めた。「清滝や波に散込む青松葉」はこうして書かれた母宛ての辞世であるといわれています。
![]() 本名、松尾忠右衛門宗房 幼名、金作 |
旅に生き旅に死んだ漂泊の詩人として各地を旅し「野ざらし紀行」「奥の細道」などの紀行文や数々の名句を生んだ松尾芭蕉は駄洒落の遊芸に終始してきた談林調を超え、わび、さび、しおり、かるみ、ほそみと言った文芸思潮を基調に、焦風俳諧を確立しました。芭蕉は処女作「貝おほひ」をかきあげ、上野の産土神(菅原神社)に奉納した後、江戸へ下りましたが、その後もたびたび上野へ足を運びました。
「芭蕉翁生家」
「芭蕉翁記念館」
「俳聖殿」
「蓑虫庵」
「故郷塚」
◎伊賀町(柘植)誕生説
伊賀国阿拜郡津藩伊賀司城上柘植村拜野
(1)翁の没後、約八十年後に加賀の俳人蓑笠庵梨一が伊賀を訪れた時、柘植村の庄屋富田社音が柘植村に松尾姓があるとといたのが始まりと云われている
史世時代の伊賀には砦をもち一族郎党従えて農業経営にあたると共に外敵に対しては武器をもって立ち上がる支配者を土豪とよび約二百余を数えたが天正の乱(1585)ひ織田信長四万五千の軍勢による伊賀政めにより破滅状態になりました。天正の乱が終わり、武家政治の封建時代となって伊賀の領主に郡山から筒井定次が移封しました。その後、関が原の戦(1600)で東軍の徳川家康が西軍を率いる石田三成を破って征夷大将軍となり、江戸幕府を開きますが大阪方(豊臣家)戸の間に一触即発の情勢となるに及び地理的にも近江の彦根城と共に伊賀が重要な拠点となたので家康が最も信頼している伊予輪島の領主で城つくりの名手といわれた藤堂高虎を津、伊賀の領主に移封してこれまでの筒井を失政を理由に領地を取上げ、切腹を命じたので定次は自害してお家断絶しました。高虎は慶長16年(1611)から城とこれまで高台のため農業ができなく荒れ果て茅の草原であった所に城下まちづくりに着手しましたが大阪冬の陣(1615)で大阪方が敗れ、豊臣家が滅亡したので戦いの必要がなくなり、家康が全国の大名に城づくりを中断するよう申し渡したので上野の城は天守閣のない城として明治維新を迎えています。一方、町づくりも城下町としての携帯が整ったのは五十年後の万治元年(1660)頃と云われており、その頃には松尾芭蕉が十四、五才となり藤堂新七郎家に仕官する頃ではないかとおもわれますが芭蕉の父与左門が江戸時代に松尾という苗字を名乗っていることは武士か無足人で無かったら中世迄の地主か土豪出身であり、江戸時代になって土地の無い弟身分なので周辺の村から新しく出来つつあった城下町に職を求めて移り住み、芭蕉の母と共に一家を成したものとおもわれます。
芭蕉の柘植誕生説は他郷から来訪した芭蕉研究家に対し史実に欠ける不正確な情報を提供した為に生まれたものと思われます。後の人達はその説に従い、その俗説を主張したままで特にみづから調査したと思われるものは見られません。また柘植に関係する芭蕉自身はむろん弟子達の句や書簡等は現在ありません。
◎上野誕生説は明治時代までは芭蕉翁の生存中に翁から聞いたという口伝えや伝説が根拠でありましたが大正十二年になって発見された川口竹人の芭蕉全伝によって上野赤阪誕生が史実として明らかになりましたが発見されるまで百六十年間眠りについていたわけでその間柘植誕生説が一人歩きしていました。また服部土芳の「三冊子」等は芭蕉の生涯や晩年の主張及び俳風を最も忠実に伝える書として尊重され偉大な芭蕉の真の姿を知る手掛かりと評価され、こうした土芳の功績は図り知れないと多くの研究家は認めていますが諸制度の余程整った江戸時代でも戸籍は寺院へ宗旨届けを出せばよかった程度のものだったので今日の様な戸籍制度が整い、誕生した家から入籍の手続といった決定的な証拠がないので、両誕生説が今後とも続くとおもいますが芭蕉さんがどこで生まれようと結果として伝える大文豪シェイクスピアと並び称される人物の誕生は、只、臍の緒をきった所が誕生の地というだけでなく、その人の育った家庭や地域の環境及び友人の影響と言った人間形成の上に欠くことの出来ない風土ではなかろうかと思います。芭蕉さんの人生五十年のうち、二十九才迄上野に住み、若くして俳諧を学び、主君の死という世の無情を体験して、いちどは人生の目標を失いその後京都で古典文学を学び、江戸へ出て俳諧で身を立てるまでに決意させた所が俳聖を生み出した誕生地であるとおもいます。柘植の誕生説に向かい合うのは大人げないきもちもありますが事実を探訪して上野市や伊賀町の後世の人の為にも誤解を解く努力を続けることが敬称して止まない芭蕉さんを顕彰していくことかと存じます。

