芭蕉と伊賀 -芭蕉生誕360年-
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芭蕉と伊賀上野
■出生の頃の伊賀上野
出生の頃の伊賀上野
芭蕉が生まれた伊賀上野は、「関ケ原の合戦」で戦功をあげた藤堂高虎の支城であった。当時の伊賀上野は人口約1万人ほどの城下町。藤堂高虎は、はじめは浅井長政に仕え、のち豊臣秀吉に仕えて伊予宇和島7万石を経て、伊予国の石高半分にあたる今治城主(20万石)ののち、中部伊勢と伊賀一国を与えられた。高虎は徳川家康の命を受け、大坂豊臣方との決戦に備えて伊賀上野に戦国最末期の城砦都市を築いた。
芭蕉が生まれたとき、上野を治めていたのは藤堂家一族の藤堂采女(うねめ)であった。
■出生・生い立ち
松尾芭蕉は、寛永21年(1644年)に現在の三重県伊賀市に生まれる。
松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれる。長兄・半左衛門、姉1人、妹3人の6人兄弟であった。父・与左衛門は上柘植村の無足人(準武士待遇の農民)松尾氏の出。(松尾家は、農業を業としていたが、正式に松尾の姓を有する家柄だった。)青年期に別家し赤坂町に移住の後一般農民の階級となる。母は、伊予宇和島から伊賀名張に移住した桃地(百地)氏の出と伝えられる。芭蕉は次男だったため、「家を出る」ことになった。

幼名は「金作」で、成長して藤七郎・忠右衛門・甚七郎などと名乗った。(本名は松尾忠右衛門宗房(むねふさ))俳号は、最初は宗房(そうぼう:本名を音読したもの)、後に桃青(とうせい)。芭蕉(署名は「はせを」)という徘号は庵号(芭蕉庵)に由来するもので、日常的にはよく使用していたが、神仏に奉献するなどの改まった場では「桃青」、「芭蕉桃青」などと署名した。
 
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■藤堂家との関係

【藤堂家】
芭蕉が生まれた伊賀上野は、「関ケ原の合戦」で戦功をあげた藤堂高虎の支城であった。当時の伊賀上野は人口約1万人ほどの城下町。藤堂高虎は、はじめは浅井長政に仕え、のち羽柴秀長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。伊予宇和島7万石を経て、伊予国の石高半分にあたる今治城主(20万石)ののち、伊勢・伊賀に転封となり、伊勢の津及び伊賀上野に城を構えた。芭蕉が生まれたとき、上野を治めていたのは藤堂家一族の藤堂采女(うねめ)であった。

【芭蕉と良忠
伊賀上野でも熱心に活動していた窪田政好・保川一笑らから俳句のてほどきを受けた芭蕉は、これの親交が縁で、藤堂新七郎家の良忠(良忠:藤堂良精の三男、俳号:蝉吟)、に若くして(18〜19歳頃)台所用人、料理人として仕えるようになった。(近習役として仕えたとする説もある。)
2歳年上の良忠とともに、京都の北村季吟に師事して本格的に俳諧の道へ。良忠とは遊び仲間でもあると同時に文学青年仲間でもあった。
(もともと、藤堂家は文芸文筆に秀でた一族で、戦乱が終息し、安定した江戸時代にはさらに力を入れた。)

【良忠の死
芭蕉22歳のとき、良忠が24歳で亡くなる。(25歳との説もあり)主君であり文学仲間でもあった良忠の死は、青年・芭蕉に大きなショックを与えた。この後、藤堂家を去る。(藤堂家を出た時期は定かでない。その上、上野にしばらくとどまったという説と、京都へ遊学したという説がある。)
そして、29歳のときに芭蕉の最初の出版物、三十番発句合『貝おほひ』を著わし、伊賀上野の天満宮に奉納し、郷土俳壇における地位をアピールした。その後、俳諧師として立つため江戸に出る。

■江戸出立・伊賀と江戸の往還
【芭蕉江戸へ出る】
寛文12年(1672年/29歳)、芭蕉29歳の時、俳諧師を夢見て江戸に下った。そこで、磐城平七万石の城主「内藤義概(よしむね)」こと「風虎」の文学サロンに参加、様々な俳人と交わることになる。延宝3年(1675年/32歳)5月、江戸本所の大徳院しょう画亭において、東下中の西山宗因歓迎の連句が興行された。そこに参加したメンバーが後の芭蕉の人生に大きく関わることになる。

≪ 参加メンバーについて≫
・宗因:江戸初期から俳諧を席巻してきた「貞門派」に対し、延宝期から流行した「談林派」の中心人物。芭蕉は宗因流の新しい波に大いに賛同し、心酔していった。
・幽山:本名高野直重。後に芭蕉と深い関わりを持つ。
・信章:後に山口素堂と称し、芭蕉とは一生の友として関わっていくことになる。
・他 しょう画(大徳院住職)、木也、吟市、少才、似春、又吟、そして桃青(芭蕉)
当時の彼の収入源は神田上水の水道工事の書記と俳句の会合での採点をする時の点料と指導料であった。

【芭蕉「俳諧師」に】
延宝6年頃(1678年/35歳)に「宗匠」となりいわば職業的な俳諧師となった。(宗匠立机(俳句の師匠として一門を率いる手続き)をした。)
延宝8年(1680年/37歳)には江戸深川隅田川畔に「草庵」を結ぶ。門人李下(りか)が庭に芭蕉の株を植え、この木が大いに茂ったことから、この庵が「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、俳号としても「芭蕉」を好んで用いるようになる。すでにこの頃芭蕉には、20人ほどの門弟がいた。

【野ざらし紀行へ】
大火によって芭蕉庵を失った芭蕉は、貞享元年(1684年/41歳)8月、門人千里(ちり)を伴い、伊勢神宮に詣で、伊賀上野に帰郷、前年亡くなった母の墓参もし、そののち大和・吉野・美濃を巡り、翌年4月江戸に戻った。このときの紀行文を『野ざらし紀行』と言う。
(この頃、今までの貞門・談林派の言葉遊びの滑稽趣味から離れ、自然や庶民生活の詩情を余韻豊かに表現して、新たに蕉風俳諧を打ち立て、俳諧を和歌と対等の地位に引き上げた。)

【再び芭蕉庵を・・・第二次芭蕉庵】
貞享2年(1685年/42歳)、弟子たちの力添えによって再び芭蕉庵が作られ、約2年間文学活動にいそしむ。

【貞享4年(1687年/44歳)〜元禄4年(1691年/48歳)・・・旅の時代】
貞享4年(1687年/44歳)10月に江戸を旅立ち、尾張・伊勢桑名を経て、年の暮れに伊賀上野に帰郷し、実家で新年を迎える。

【元禄5年(1692年/49歳)・・・第3次芭蕉】
芭蕉の考え方が大きく変化し、門弟の中には離反するものも出てきた。
この後も何度か伊賀上野に帰郷している。
 
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