【藤堂家】 芭蕉が生まれた伊賀上野は、「関ケ原の合戦」で戦功をあげた藤堂高虎の支城であった。当時の伊賀上野は人口約1万人ほどの城下町。藤堂高虎は、はじめは浅井長政に仕え、のち羽柴秀長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。伊予宇和島7万石を経て、伊予国の石高半分にあたる今治城主(20万石)ののち、伊勢・伊賀に転封となり、伊勢の津及び伊賀上野に城を構えた。芭蕉が生まれたとき、上野を治めていたのは藤堂家一族の藤堂采女(うねめ)であった。 【芭蕉と良忠】 伊賀上野でも熱心に活動していた窪田政好・保川一笑らから俳句のてほどきを受けた芭蕉は、これの親交が縁で、藤堂新七郎家の良忠(良忠:藤堂良精の三男、俳号:蝉吟)、に若くして(18〜19歳頃)台所用人、料理人として仕えるようになった。(近習役として仕えたとする説もある。) 2歳年上の良忠とともに、京都の北村季吟に師事して本格的に俳諧の道へ。良忠とは遊び仲間でもあると同時に文学青年仲間でもあった。 (もともと、藤堂家は文芸文筆に秀でた一族で、戦乱が終息し、安定した江戸時代にはさらに力を入れた。) 【良忠の死】 芭蕉22歳のとき、良忠が24歳で亡くなる。(25歳との説もあり)主君であり文学仲間でもあった良忠の死は、青年・芭蕉に大きなショックを与えた。この後、藤堂家を去る。(藤堂家を出た時期は定かでない。その上、上野にしばらくとどまったという説と、京都へ遊学したという説がある。) そして、29歳のときに芭蕉の最初の出版物、三十番発句合『貝おほひ』を著わし、伊賀上野の天満宮に奉納し、郷土俳壇における地位をアピールした。その後、俳諧師として立つため江戸に出る。