常福寺の案内

当山は、江寄山明王院常福寺(こうきざん・みょうおういん・じょうふくじ)と申します。
三重県伊賀市(旧上野市)の古郡に位置しており、不動山を背に南面し、低く開いた前方に人里田園を控える、すこぶる形勝の地であります。
本尊は、五大明王。
宗旨は真言宗豊山派で、奈良県桜井市初瀬の長谷寺を総本山に仰いでおります。

当山の歴史は古く、奈良時代に遡ります。
創建は、養老六年(722年)。
徳道上人開基。

和州豊山長谷寺(総本山長谷寺)の開基である徳道上人が、長谷寺本尊の十一面観世音菩薩執行成就後に当地に於いて、「南面が晴れて霊鷲山に良く似た名利の地である」として、長谷寺本尊十一面観世音菩薩造立の余材を用いて稽文會・稽主薫の二人の仏師に命じて本尊五大明王(五大尊)を造り、仏閣を修造した後、天平二年(730年)聖武天皇に上奏して勅願寺に定められました。

その様は「寺垣東西四町三十間、南北は長短有り。本堂六間四面、他に妙法経堂・鐘樓・金剛力士の仁王門・客殿・厨裏以上瓦葺。寺領定成九十六石」と伝えられています。

大同二年(807年)願安大師中興。興福寺末であった時代もあり、「興福寺官務帳」には「僧坊十八宇 交衆十人」と、相当有力な寺院であったことが記録されています。 
 
常福寺本堂
天正伊賀乱において、本尊のみを残し堂宇を悉く焼失。その後、紀州根来より宥俊法印が入山し元和元年(1615年)に当寺を復興。宥俊法印を中興開山の祖としております。
徳川時代は、藩主藤堂家の祈願所として保護を受け、寺運も挽回し、寛政八年(1796年)慶応法印が現在の本堂を造営しました。
その後、明治三十四年(1901年)光如法印代に一度、次いで昭和五十五年(1980年)に現住職杲深による屋根瓦葺替の大修理が行われており、現在に至っております。

伊賀地方は、京都・奈良と伊勢を繋ぐ街道があり、いにしえより伊勢参りの人々が盛んに通ったそうです。常福寺近辺にも、奈良文化の影響を受けた古いお寺がたくさん残っておりますが、なかでも当山は、伊賀を代表する古刹として現在もその姿を留めております。

常福寺は古くから、門前の伊賀市(旧上野市)古郡、名張市の上小波田・下小波田地区に檀家を有し、時代の変遷と共に地区外にも多くの檀信徒の信仰を集めております。
今日も各行事・各事業の折には、檀信徒各位の多大なご理解・ご協力が寄せられており、当山護持の為の篤い信仰が生きております。