被爆体験・・語り部・・猪田小で人権講演(1127)
爆心地からの被害範囲 (赤色の部分) 放射能を含んだ黒い雨 降雨地域

被爆体験・・語り部・・猪田小で人権講演(1127)

 
去る1127()午後230分から「被爆体験を次世代につたえたい!」と題して、語り部の財団被爆体験証言者の梶本淑子先生をお招きして講演をお願いいたしました。
 語り部の梶本淑子さんは、14歳で被爆体験されました。戦闘機の部品を当時集団疎開で来ていた女性徒さん達と一緒に工場で作っていました。同じく疎開していた男性徒は道路の拡幅作業をしていました。
 戦争中であったために食糧事情は非常に悪くさつま芋を食べるのが精一杯でした。しかも、お腹一杯に食べる量はなかったのです。ですから白いご飯をお腹一杯食べるのが夢でした。食料不足でお腹が減り夜は真っ暗で睡眠不足に陥っていました。
 広島市は、当時空襲の被害を受けていない地区でしたが86日朝8時頃、空襲警報を知らせるサイレンが鳴り、皆がまたかと思っていました。その後、816分にピカーと光り大音響と地響きで原子爆弾が炸裂しました。これが原爆を投下されたことになります。
 投下時には、梶本先生は建物の中におり、直接原爆の光を浴びていませんが、綺麗な光を見たといいます。そしてその状況は凄まじいものだと回想していました。
   まず、原爆投下中心地から南北5km,東西4kmに及ぼす範囲に高熱による火災や爆発による被害を与えました。原爆投下範囲にいた人たちは、この凄まじい光と爆発熱による被災に遭遇しました。その状態は声に出していえない状況だと伝えていました。
  その後、黒い雲が現れ激しい雨を降らせました。この雨は放射能をふんだんに含んだ黒い雨といい、爆心地から北北西に15km、幅10kmに及んでいます。少雨では北北西に29km、幅19kmにもなります。この雨に濡れれば放射能は人間の生命のある限り減衰しないのです。
 さて、原爆が投下された市内ではどこもかしこに真っ黒に焼きただれて、炭になった死体は目を飛び出したまま沢山転がっていました。また、生きていて被災にあった人たちも多く、皮膚が原爆の影響で焼けただれ、見るも無残な姿でした。体が原爆の光で焼かれているので、喉が渇くのか水を求めて沢山の方が川の中に溢れてそのまま死んでいきました。軍では被災者には水を飲ませないようにとのお触れが出ていました。それでも本人にとっては水を飲みたいので川に入り死にます。川から出ようとして堤を這い上がるが爪がはがれ登れないし、皮膚も剥れただれていく。その後は死を待つばかりであった。
 梶本先生は、これらの状況を伝えるが投下直後はなにも記憶にないという。
 梶本先生は原爆投下後の工場の中では、阿鼻叫喚の状態で右の腕が痛いが友達たちを呼び合い助けを求め合った。
 明るいところに出て友達と一緒になりたかったが、それもままならない。ようやく外に出ると一面瓦礫の町姿。出血の応急手当を衣服で行い町に出ようとしたが、町の人たちはお化けの格好でやってくる。中学生は頭の毛がなく死んでいた。また、皮膚の焼けた死体の子供を抱きながら母親は近づいてきて死んで行った。
 次の日から死体は集められ、死体の下には蛆虫が沢山わいているのが見られたし、目のない死体、内臓が出ていたり手や足のない死体がガソリンをかけられ焼かれて異様な臭いがした。
 梶本先生は、父親に助けられてたが、助けに来た父親は1年半後残留放射能の影響で死んで行った。


 今皆様にお願いするのは、
 @原爆を地球からなくなるよう訴えてほしい。絶対使用しないようしてほしい。
 A平和になるよう努めてほしい。皆さんが優しく思いやりのある心になればより平和になっていくと思います。
 B自分の生命を大切にしてほしい。爆弾で多くの人が死んだ。戦争すると何もできない。平和であるよう頑張ってほしい。
 C差別問題で、原爆の被災に遭った人は原爆の影響で遺伝するといい、結婚できず差別された。よく考えてほしいという。
 D被災で生きていた人を、よく帰ってきたと喜んだが、暫くすると自分の子供が死んだため、なぜ帰って来たと逆恨みをした人がいた。

 以上のような内容でしたが、全講演内容を記載出来なかったことを悪しからずお詫び申し上げます。


  ご多忙の中、猪田地区の沢山の方々が参集戴き有り難うございました。

 梶本先生は、原爆の被災体験を通じ、被災状況やその時の人間模様をお話くださりました、また、人間模様から人権についての教育を含めて我々に伝えてくださいました。

 梶本先生、本日は大変勉強させていただきました。この教訓を次世代に伝え平和な世の中になるようお祈りいたします。