2.障害者と共に

 それならば、偏見とか無理解は、何が原因でしょうか。
 一つには、幼児期からの教育が原因となっていないでしょうか。もちろん、それは、親の責任でもありますが、小さい頃から別々に教育されてきて、今になって理解しろ、というのが無理な話なのです。
 思うのですが、教育の方法は、障害の種類や重さによって異なりますが、なんといっても、社会というのは障害の有無を問わず、ましてや障害の種類も重さも問わずに構成されているのではないでしょうか。それが、教育の場では別々とは不可解です。
 小さい時から、知能の発達が遅れている子や、手足の不自由な子や、目の不自由な子と一緒だったら、障害者の事を本気で考えないこんな社会にならないのではないか、一人ひとりが当たり前にこの問題を考えていると思うのです。
 口でいくら障害者を理解しようと言っても難しいことです。本でいくら彼等を知っても、頭の中の理解に過ぎないのです。

 この問題を理解してもらうには、理解する必要性を説明しなければならない、と言われました。わかる必要がなければわかりたいたいという要求は出てこないと言うのです。けれども、同じ人として彼等と理解し合いたいと言えるだけで、はっきり僕にも、何故その必要があるのかわかりません。分からないまま過ぎていくのが、今の社会なのです。
 社会的に強い者が支配している社会なのです。

 しかし、そんな社会は間違っていると思います。社会的に弱いものが、見捨てられる社会は間違っているはずです。
 そんな社会をうち破るには、その弱いものが立上がらなくてはなりません。それに気付いた者は一緒に歩かなくてはいけないのです。
 話は共学からそれてしまいましたが、今の教育は、弱いもの、心身に障害を持っている人達は、一般教育(これもおかしな言葉です。何に対して“一般”というのでしょうか)から特殊教育諸学校へと切り離され、義務教育の就学猶予・免除とやらで見はなされているのが現状です。
 教育に問題があるから社会がそうなのか、社会に問題があるから教育がそうなのか、僕にも分からないところですが、おかしいことです。
 もちろん、今の学校へ障害者がそのまま入ってもだめだと思います。しかし、共学を真剣に考えるなら、いろいろ工夫できると思います。障害を持つ人と学びあうことは、どちらも生かされるだけではなく今の点とり主義、能力主義の教育を根本から問い直すことにもなることに気付くはずです。
障害をなんとか乗り越えようと努力している姿にかわいそうだとか、あなたの為に何かしましょうとかどうして言えるのでしょうか。
 学びあい、生かしあう、それが教育なのでしょう。どうして、別々に教育されなければならないのでしょうか。