さまざまの事おもひ出す桜かな
  貞享五年(一六八八)四十五歳の作である
句意
 ふるさとである上野に帰って今は亡き旧主禅吟公の庭前に昔のように咲き乱れている桜を見ると、自分が若い日旧主に仕えた日のことなど、この桜にまつわるさまざまのことが思い出されてならない。
 若き日の芭蕉は藤堂藩の侍大将藤堂新七郎家に仕えていた。嫡男良忠公は禅吟と号し北村季吟に俳諧を学ぶ若き青年武将であった。芭蕉は禅吟公から格別の恩寵と待遇を与えられ、新七郎家の下屋敷である八景亭にも幾度か随従し、俳諧の途に進む学友として苦労も喜びも共に味わっていた。そんな中杖とも柱とも頼むべき主君禅吟公が寛文六年、二十五歳の若さで夭折した。芭蕉は失意の中当家を退き京都へ遊学、血の滲む思いの苦闘の中やがて江戸に下り俳諧宗匠として認められるまでになった。                                                                                                                                              主君の死後二十二年の歳月が流れ芭蕉は貞享四年に上野へ帰郷、翌春ののどかな日、旧主蝉吟公の遺児である探丸の招きにより、八景亭(新七郎家の下屋敷)での花見の宴に参列し禅吟公との交情の数々を心に秘めて挨拶の句を作り、懐紙に書きとめた。
上野市玄蕃町 さまざま園 上野市丸の内 上野公園白鳳城下
(非公開)
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