行あきや手をひろげたる栗のいが
元禄七年(一六九四)五十一歳の作である
句意
 秋も去り行こうとしている今日此頃、栗の木の梢にはその毬が恰も手をひろげたように笑み割れている。そのことは同時に「旅行くわたし」を伊賀の門人たちが止めてくれるような気がしてならない。
 伊賀の門人たちへの留別の意をこめた作であり、芭蕉の健康上の理由からもことに門人たちの惜別の情が深かった。                     「手をひろげたる」が無造作なような表現でありながら、そのさりげなさのなかにかえって豊かな感情を秘めている。このような俗語的表現を生かしたところに「軽み」の真髄が生まれてくるものだろう。
上野市長田 芭蕉の森
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