家出彼女とトマト猫 C
けでしばらくは化粧の甘い香りが辺りから消えないでいた。化粧の香りは嫌いではない健治だったが、ムスクの香りが漂うと辟易とするのだった。
「随分嬉しいことを言ってくれるわね。お世辞としちゃ最高の台詞よ。でもさぁ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。気を悪くしないでね」
唐突に質問すると言われて健治は一瞬身構えた。
「あなたってもしかしたらアレなの」
由美の質問は健治には理解できなかった。「何だよアレって」
「つまり何よ、ホモじゃないかってことよ」 突然の台詞に健治は一瞬息を詰まらせた。「ホモって男性だけが好きって言うホモのことかい」
「うん」
申し訳なさそうに由美がうなづいた。
「朝から最高の冗談だ。でも、どうしてぼくがホモだって見破ったんだ」
由美の瞳が大きく見開かれ、健治の顔をまじまじと見た。
「だって普通は何かあるでしょ」
「何かって」
「だから、男と女が一つの部屋で寝ればさぁ、あっ、勘違いしないでよ。私はそんな事を期待してこの部屋に泊まったわけじゃないんだから」
太郎がいたからよ。とでも言うように由美は太郎を強く抱いた。
「残念ながらぼくは男性に興味はない。どちらかというよりも絶対に女性に対して強い関心を持っている。それに普通の男性の性欲なんて知らないけれど自分ではスケベな男だということも自覚している」
じゃあどうして。とでも言うように由美の瞳に力がこもった。
「一つには太郎を抱いて寝ている君に手を出すスキがなかった。もう一つは守ってあげなければと、あの時の君の寝顔を見ていて思った」
「そんなに情けない顔をしていたのかなぁ」「そうじゃない。君から聞いた話と昨日の君から発していた雰囲気からだよ」
そう言い終わると健治はコーヒーを一口すすった。コーヒーは飲みやすい冷たさになっていた。
コーヒーを飲みながら健治は会社を休もうかと考えていた。
昨夜、ゆっくりと寝たつもりでも睡眠は浅く寝不足であったし、何より由美と太郎と自分のいるこの雰囲気から出ていく気持ちになれなかったのだった。コーヒーの香りと玉子を焼いた香りが充満する部屋の中に身を置いていると、自分自身の体が溶けてしまいそうな気分になっていた。
「昨日はこんな時間だったよね」
由美がポツリと思い出したように言った。「何が?」
「あなたと階段で出会った時間よ」
由美の台詞から、健治の出勤時間を心配している様子が伝わってきた。昨日、太郎と会ったのも、健治と会ったのも八時を少しだけ回った時間だった。
「休もうか」
「えっ」
「だからさぁ、今日は会社を休もうかと思ってさ。その方が良くないかい」
苦いクスリを飲んだ顔。いや、薄味の料理を味わうような表情を由美はした。
「どう」
「嬉しいんだけど、何か責任を感じちゃうのよね。だってあなたの欠勤の原因は太郎と私ってわけでしょ」
「それだけじゃないけど」
「じゃあ、あなたって時々会社を大した理由もなく休むわけ」
母親に叱られているような気がした。そうやって自分のために誰かが心配して怒ってくれるというのは悪い気がしなかった。でも、これってマザコンの感覚なんじゃないのだろうかという疑問が頭の中に浮かんできた。
「あなたはあなたの生活をすればいいのよ。別に私や太郎に合わせる必要なんて何もないわ」
ピシャリと由美が言った。それはまるで、『一晩一緒にいただけよ。何の関係も持たなかったのよ。それなのにその気になるなんておかしいわよ』と言っているようだった。
健治は、自分が由美の恋人であるような錯覚に陥っていたのかと反省した。
登校拒否の小学生が親に言われて無理やり学校に生かされる時のような気分になっていた。全ての動作が緩慢で、何か休む理由はないのだろうかとひたすらそのチャンスを伺っていた。
「じゃあ、行ってくるよ」
帰りは早く帰るからと付け加えようかと思ったけれど、由美は今日も健治の部屋にいるとは一言も言わなかった。それなのに、健治だけが恋人気分で話しを進めることは気恥ずかしくて口に出すことはできなかった。
健治はエレベーター乗り場に向かった。どんな事があってもエレベーターに乗ろうと小さな決心をしていた。
会社に着いた健治は時間が過ぎて行くことだけを考えようと努力していた。しかし、得意先からの電話を何件か受け答えしていると頭の中からは由美のことや太郎のことは消えていた。時折、ふとした瞬間に昨夜の事を思い出すのだが、次の瞬間には仕事に気持ちは移っていた。
午前中の仕事を終え、昼休みになった健治は同僚の山本と連れ立って昼飯に出掛けた。健治の会社に社員食堂はあるのだが、決まったメニューしか用意されていないために健治は外食することが多かった。
受け付けの前を通った健治は自分に向けられた視線を感じていた。
恵子の視線は健治に何事か訴えるような視線であった。隣に山本がいなければ、手招きか、あるいは近付いてきて要件を伝えるのだろうが、二人の関係を何も知らない山本がいては恵子も自分の取るべき行動に躊躇しているのだった。
受け付けの前を通った健治は恵子の方を見た。二人の視線は一瞬交わった。それだけで、恵子には健治の『了解』という気持ちが伝わっただろう。後で公衆電話からでも電話をすればいい。
近所の食堂に入ると、山本は目敏く入口近くに空席を見付けた。この時間帯は要領が悪いとせっかくの休憩時間を無駄に過ごすことになってしまう。山本のお陰で食後のコーヒーも確保できたことになる。
かぐわしい香りが漂うコーヒー専門店に入った健治たちはそれぞれに飲みたいコーヒーを注文した。山本はアメリカンにしたが、健治は昨夜の寝不足を考えて少し濃い目のコーヒーにした。コーヒーが運ばれてくるまでの時間を利用して、健治は喫茶店の公衆電話から恵子に電話をすることにした。うまい具合にこの店の電話は小さなブースに囲まれた電話で、誰からも話の内容を聞かれる心配はなかった。山本は漫画本に熱中しており、健治の電話を気にする気配もなかった。
「何か用があった?」
最初に電話に出たのが恵子だった。
「今日のあなたの予定はどうかなと思って」 直ぐには返事ができなかった。一瞬ではあったが少しの『間』が気まずい雰囲気を作ったようだった。
恵子は確実に何かを感じ取ったのだろう。丁寧な口調に変わり、それからの健治の言い訳がましい言葉を事務的に聞き終え、電話を切った。
恵子との電話の一瞬の『間』は、もちろん由美の存在が影響した『間』であることは健治にはわかっていたのだが、どうして恵子との会話の中にまで及んできたのかまでは考えることはできなかった。
席に戻ると山本は運ばれたばかりのコーヒーをうまそうに飲んでいた。
「長いトイレだな。腹の調子でも悪いのか」 漫画のついでに聞いたような山本の質問に健治は曖昧に答えた。
「そういえば、猫だか犬だか飼ったようなことを言ってたけど、おまえのマンションでそんなの飼ってもいいのか」
昨日のわずかなやり取りを思い出したのか山本が突然言い出した。今度は漫画本から視線を移し健治の視線に自分の視線を合わせての質問だった。『答えろよ』と目が健治に詰め寄っていた。
そういえば、昨日山本に猫の話しをした時に「猫なんて言って案外子猫みたいな可愛い女の子が待っているんじゃないのかい」と言っていたのを思い出した。どうやら山本は健治を疑って探っているようだった。
「管理人に気付かれなければ防音設備はしっかりしているし、鳴き声も小さいから隣人にもわかりっこないよ」
そう言いながら、健治は今朝出掛ける時に管理人が健治の方を意味あり気に見ていたことを思い出した。猫のことは気付かれていないだろうが、猫と一緒にくっ付いてきた由美の存在はかなり目立つ。今日も由美が買い物袋を下げて何度か行き来をすれば、管理人の疑惑は絶対的なものに変わるだろう。
管理人に必要の無い疑惑を持たれることは不愉快であったが、由美が今日も健治のために買い物をし、料理を作って待っていてほしいと考えていた。
山本の追及は長くは続かなかった。短い休憩時間の中で運良く手に入れた本日発売されたばかりの漫画本を読み終えることの方が山本には緊急の課題であったのだろう。
喫茶店を出ると、二人はそれぞれ自分の周囲で知ることができた何人かの女の子のスキャンダラスな会話を交換して仕事場に向かった。と、言ってももっぱら情報を提供するのは山本の方で、適当に相槌を打ちながらも健治は山本の持つ情報の多さから自分と恵子との関係も知られているのではないかとフト心配になっていた。
会社のロビーに入った二人は受け付けの前を通ってエレベーターに向かった。先程の電話の件もあり、健治は恵子のいる受け付けは通りたくはなかったが、受け付けを通過しなければエレベーターにはたどり着けない。
覚悟を決めてその前を通ったが、恵子は二人の事を完全に無視して隣に座っていた新人の女の子と何事か話しをしていた。それはわざとらしくもあり、健治に対する当てつけっぽくもあった。
「おい健治、水上もツンと澄ましていい女だが、隣に座っている夕佳もいいなぁ。水上なんて取っ付き憎くて俺は苦手なんだが夕佳は人当たりも良くって案外俺好みなんだよ」
エレベーターに入ると山本は得意気に話しを始めた。新人の名前まで知っている山本に対して、健治は山本のアンテナの高さというのか情報量の多さにあきれていた。それだけ、暇なのかもしれなかった。
四時を少しだけ回った時間に健治の席に課長の今井が近付いてきた。そろそろアフターファイブの事を考え始める時間帯だ。
「五時から用事はありますか」
いつものフレーズだ。二人いる子どもが高校に入学し、親離れをしたのか相手にされなくなった課長は、最近特に家に真っ直ぐ帰るのが嫌なのか誰かを誘っては飲みに行く。今日はその矛先が健治に向いてきたのだった。「寝不足なもので」
睡魔と戦いながら数時間を過ごしてきた健治は突然の今井の誘いに適当な言葉を見付けることができなかった。
「そりゃいかん。是非ぼくと付き合ってテンションを高めないと明日の活力が失われる。勤労意欲は遊びの中から生まれるものだよ」 いまさら次の言い訳を言っても遅過ぎることは課長の笑顔から明白だった。既に今夜の獲物はゲットした充実感が今井の顔には浮かんでいた。
適当な言い訳をすれば今からでも誘いを断ることは可能だろうが、それをすると人間関係を悪くしてしまうし、健治にはそれ以上の言い訳を思い付くこともできなかった。狙われた瞬間に獲物の運命は決まっていたのだ。
課長の指定した店に行く健治の足取りは重かった。寝不足が原因ではあるが、それだけではなかった。道すがら、公衆電話を見付けた健治は右肩でドアを開け公衆電話の中に滑り込むように入った。
自分の部屋に電話をする。
健治の部屋では突然鳴った電話の音にどうしていいのか由美はしばらく電話を前に考え込んでいた。健治の友人からであれば、健治の立場を複雑なものにするし、もし、彼女であれば健治に迷惑を掛けてしまう。太郎を膝に乗せ、由美は電話のベルが鳴り止むのを待っていた。鳴り続ける電話の音に、由美はどうしてこの部屋でいるのか、どうして電話の音に怯えていなければならないのかと自分自身の行動や気持ちに対して自問自答を続けていた。電話のベルは直ぐに止まったが、由美の考えは終わろうとはしなかった。
次の店に行こうとオダを上げる課長をうまくなだめて最終近い電車に乗った健治は、昨夜の寝不足と、心地好く回り始めた酔いから簡単に眠り込んでしまった。まったく電車のリズミカルな揺れというものは人を他愛も無く眠りの世界に引き込んでしまう。
不思議なものでどれだけ電車の中で熟睡していても、頭のどこかは緊張しているようで降りるべき駅が近付いてくると自然と目が覚めた。右肩の重みは隣に座ったOLが健治にもたれ掛かっていた重みだった。OLを起こさないように気をつけて健治は椅子から立ち上がった。仕事の疲れなのかアフターファイブで同僚か彼氏と飲みに行って酔っ払ってしまったものなのか、OLはぐっすりと眠り込んでいた。健治はOLの寝顔に視線を送り、昨夜の由美の寝顔とは随分違いがあることに気付いていた。OLの寝顔には安心感と幸福感がなかった。
駅からアパートに向かう健治はいつもとは違う自分の感覚に少しだけ戸惑っていた。いつもなら疲れ切った足取りは重く、階段を上り下りするだけでも気合いがいるのに、その日の健治は誰かが背中を押しているかのように足が自然と前に動いた。
マンションの前に立った健治は小さな深呼吸をした。もちろん、部屋にいるはずの由美がいなくなっているという予想を打ち消すための深呼吸だった。
エレベーターを待つのがもどかしく感じた健治は階段を上がって部屋に向かった。
ベランダから見えるトイレの電気は消えていた。当たり前のことなのだろうが、少しだけ気落ちしてしまう。
鍵穴に鍵を差し込みカチッという小さな音がした事を確認した健治は、ドアノブに手を掛けゆっくりと回した。
健治の気配に気付いたのか太郎が駆け寄ってきた。それは特別健治を出迎えるためというものではなかったようで、突然やって来た何者かを確認する行為であったようだ。健治を見ると太郎は直ぐに部屋の中に消えてしまった。本当の飼い主の元に走り去っていったのだろう。
太郎のしぐさで健治は由美が部屋にいることを確信した。体中に張り詰めていた空気が一瞬にして健治の体の中から抜けるのを健治は感じた。
太郎が入って行った部屋は間違いなく幸せが充満している部屋である。健治は心の中に暖かい感情が沸き起こりつつあることを感じていた。
これから、いろいろと面倒な事が起こる事が予想できた。でも、それは今の健治にとって困難という程のことでもなかった。
まず最初に由美の気持ちを確かめなければならない。その後はどうにかなると楽観的に健治は思っていた。
少しだけマザコンの健治と、徹底的にマザコンが嫌いな由美。そして本当のマザーはどこにいるのかもわからない太郎との関係が始まっていくのだ。
玄関から由美がいるはずの部屋には向かわず、健治はキッチンの冷蔵庫に向かった。ドアを開け中を見る。冷蔵庫のほのかな明かりに照らし出された庫内は冷えきっているはずなのだが、健治の現在の幸せを象徴するかのように暖かそうだった。そして、その暖かい光に照らされた食財の中で、健治は迷わずトマトを取り出した。
健治は手にしたトマトにかぶりついた。心地好く冷えたトマトは体の隅々にまでみずみずしさを行き渡らせる。滴り落ちるトマトの果汁が健治のワイシャツを濡らしたが、健治はかまわずに食べ続けた。
その日のトマトは、青臭さも田舎の思い出も呼び起こさなかった。