家出彼女とトマト猫 B

 「言いたくないんだね」
「どうしても聞きたいの」
 目を見て真剣に言われると健治のテンションは一気に落ちてしまった。
「聞けばどうなるの。何も知らない人間とじゃ話もできないってわけ」
 言われてみればもっともな由美の反撃だった。確かに由美の素性を聞いたからと言って何も変わるようには思えなかった。でも、やっぱりおかしい。通りすがりの関係なら特別問題ではないが、健治の部屋で一緒に食事をしているのだ。
 そんな疑問も酔いが回り始めた頭では深く追及するまでには至らなかった。
「君の言う通りだ。ムキになって問いただして済まなかった。でも、目の前に飛び切りの美人が出現すれば、いろいろと聞きたくなるのが普通の感覚でもあると思う」
 素直に謝ったことと、美人という台詞が健治の口から出てきた事に由美は気をよくしたのかポツリポツリと話し始めた。
「年齢は二十七歳」
 最初に由美を見た時の印象からは大きく外れていた。健治よりも一歳年上になる。
「とりあえず独身」
 とりあえずという台詞は大変気になる台詞であった。しかし、あえて何故とは聞かなかった。いや、聞けなかったのだ。
「以上」
 イタズラに成功した子どものような表情で由美は言った。
「それだけ?」
「そうよ、それだけ」
「もう少し君の事を知るヒントはないの」
「美人には謎が多いものよ。その方がミステリアスで実物よりも何倍も素敵に思えるでしょ」
 半分冗談で半分は本気のようだった。
「わかった事はぼくより年上で独身って事だけか」
「えっ、君は私よりも年下なの」
「そうだよ、おばさん」
「いくつ違うの」
「それは言えないね」
「どうして」
 無意識の内に健治は相手が年上であったことに安心感を覚えていた。幼い時に父親が健治の元から去り、母親と二人きりの生活が続いていた健治にとって、自分を守ってくれる女の人の存在をいつも心のどこかで求めていた。
 年齢不詳の由美も年齢を知ると随分暖かくて柔らかい女性に思えてきた。由美の手の中で甘えている太郎がとてもうらやましく健治の瞳に映った。
「お姉さんだったのか。じゃあ乾杯しよう」 健治は浮かれて言った。
「もしかして、君ってマザコンなの?」
「そうかもしれない。あなたがたまらなく頼もしい人に見えてきた」
 あからさまに、由美は不機嫌な表情を浮かべた。
「ニャ〜」
 今度の泣き真似は健治だった。
「辞めてよ、変になつかないでよ。居心地悪くなちゃうわ」
「ニャ〜」
 又もや甘えた声を出す健治に対して、由美は体全体に鳥肌が立つのを感じていた。
「ちょっとちょっと大声を出すわよ」
「どうして」
「得体の知れない生物って恐怖に感じちゃうのよ」
 ニャッと健治が笑った。
「だろ。得体の知れない人って妙に気になるでしょ。分かってしまうと安心するんだけどもね」
 そう言った健治の表情は生き生きとしていた。
「だから少し前の君は恐怖とまではいかないけれど、ぼくにとって気になる人だった。だからぼくは君の事が知りたくて仕方がなかったんだ」
 あきらかに健治の作戦勝ち。由美は健治の巧みな誘導に自分が引きずり込まれてしまったことを観念した。
「わかったわ。言えばいいんでしょ」
「言いたくなければ無理にとは言わない」
 そうは言ってはいるが、健治の表情には勝ち誇ったような得意気な雰囲気が満ち溢れていた。
「嫌になったのよ」
 何が。とは合槌は打たなかった。
「彼や彼の両親。いいえ、彼の根本的な結婚という概念に対して」
「オノロケ話しかい」
「違うわ」
 それまでとは違って由美の表情は堅くて思い詰めたようだった。
「見合いみたいなものって言うのかな。本当は見合いなんてどんなものか知らないから適当に見合いって言葉を言うんだけど、親同志が知り合いで、今から思うと偶然を装ってはいるんだけど引き合わされたの」
 知りたくて仕方が無かったことだけど、これほどシリアスに語られると健治は照れてしまってどんな表情をしていいのかわからなくなっていた。ともかく視線を合わせずに由美の次の台詞を待っていた。
「特別断る理由もなかったし、大学の時の友達なんかも次々と結婚していったから自分もそうなのかなって思って付き合いを初めていたの」
「年齢的にはおかしくない」
「どういう事。おばさんってことなの」
 まるで酔っ払いが酒場でからむような感じで由美が健治にからんできた。
「出産とか育児とか考えると潮時って思う」「分別あるおじさんみたいな言い方をしないでよ」
「でも、五十歳で最初の子どもの成人式っていうのも辛いだろうなぁ」
「現実的な考え方ね」
「でも、近頃の五十歳は随分若く見える」
「慰めるにしては興ざめな慰め方ね」
 当事者を目の前にして聞くと随分厳しい話の連続ではあったが、世間ではよくある話が由美の口から続いた。つまり、結婚直前になって『びびった』というのか、自分の心の中に芽生えた小さな疑問が自分の心の中で消化できずに全てが嫌になってしまったという彼女には申し訳ないが良くある話だった。
「その人はマザコンだったの」
「近頃多いね」
 あなたも一緒ね、と言うかと思ったが、由美はそのまま話を続けた。
「いつもデートの時は母親の話ししか彼の口からはでなかったの。それに、初めて彼の部屋でそんな雰囲気になった時に彼の母親がノックもしないで部屋の中に入ってきたの」
「考え過ぎじゃないのかい」
 予想以上にテンションを上げて話しをする彼女にストップをかけようと思ったが、彼女の勢いは止まらなかった。
「だってその時に私を見た目付きはオニババみたいだったもの」
「オニババねぇ」
 健治は気の無い返事をした。その態度に腹が立ったのか由美は健治をにらみ付けた。由美の凄まじく厳しい視線に耐え切れなくなった健治は雰囲気を和らげるためにおどけて言った。
「そいつは母親の事をママ、ママって言うのかい」
「チャーちゃん」
「何それ」
「最初は私も誰の事を言っているのか分からなかったの。でも、よく聞くと母親の事をチャーちゃんって言ってたのよ」
 彼女の怒りが頂点に達した時、健治がどうしていいかわからなくなった時に太郎が目を覚まして大きな声で一声鳴いた。
「ニャ〜」
 憑物が取れたかのように由美の表情が拍子抜けした表情に変わった。
「で、家をで・た・の」

 それからは由美は自分の事は語らなくなった。健治もあえてそれ以上由美から何かを聞こうとは思わなかった。
「ひょっとしてあなたもマザコンかな?」
「どうして」
「何となくそんな気がしたの。少しだけ彼に似ているのよ」
「それは光栄だと思えばいいのかな?それともダメ男って烙印を押されてしまったのかなぁ?」
 それには由美は答えなかった。そして、まるで健治の全身を透して見るようなしぐさをした。
「母親しかいないんだ。ぼくが幼い時に両親は別れてしまったからぼくの身内は母親だけなんだ」
 正確に言うと父親は生きてはいるらしいのだが、別れた時の条件なのかその時以来父親は健治の前に姿を現すことはなかった。

「よかったね」
 嬉しそうに由美が言った。健治には由美の台詞は何を言おうとしているのか伝わらなかった。
「何が」
「家族が増えたからよ」
 健治の表情にあきらかな狼狽の色が浮かんだ。
「ちょっと待ってよ。会ったばかりだっていうのに…。ぼくはまだまだ君の事を知らないし君だってぼくの事を何も、いや名前くらいしか知らないはずだ」
 必死に言葉をつなげて口から搾り出すように話している健治を見て、由美は楽しそうにほほ笑んだ。
「あなたって結構おっちょこちょいな性格じゃない」
 パニックになった健治には由美の台詞が何を言っているのかすらわからなかった。
「だからもう少しお互いを知ることから始めないと…」
 うろたえ続ける健治の顔の前に、由美は抱いていた太郎を差し出した。
「新しい家族ってこの子の事でしょ」
 例えば、宝くじの当選番号を見て、二番違いの時にこんな表情になるんじゃないだろうか、という表情を健治はしていた。
 何か適当な言葉でこの場を言い繕うとした健治だったが、健治の頭の中は相変わらず最高の虚脱感が支配しており、単語どころか絵文字すら現れてはこなかった。
「ついでだから私も家族の一員に加えてもらおうかな」
 唐突。いきなり。突然。いや、自然な雰囲気で由美が言った。
 とりあえず、健治は視野に入ったグラスに手を伸ばし、その中の液体を胃の中に流し込んだ。             
「迷惑よね。冗談よ気にしないで」
 今度は由美がバーボンを口に含み、それを一気に飲み干した。由美の透明で、か細い喉が小さく動いた。
(それもいいかな)
 一瞬頭の中に浮かんだ考えを、健治は随分自分は酔っているんだという状況を認識して押しとどめた。

 音声を消したまま付けていたテレビのモニターには深夜番組特有の無気力な番組が映っていた。わざわざ自分の後ろの壁に掛けてある時計を見るまでもなく、日付は新しく変わっていることはわかった。つい先程から健治は心地好い睡魔に詰め寄られ、絡めとられそうになっていた。眠りたいという欲望を「で、どうするわけ、この状況を」と訴える理性が押しとどめていた。    

 トイレに立った由美を目で追った健治は、テレビの音を少しだけ大きくした。由美に気を使ったのだ、ボリュウムを上げることでトイレからの音が聞こえないようにした。
 由美がトイレに立ち、その場から消えたことと、テレビの音が聞こえてきた事で、不安になったのか太郎が小さく鳴きながら健治の足元に近付いてきた。
 太郎を抱き上げると、一瞬由美の香りがした。健治の腕の中に収まった太郎は安心したのか満足気な顔をした。しかし、しばらくして由美がトイレから出てくると、太郎は健治の腕の中から逃れようと体を動かした。
 健治は太郎をそうっと床に下ろし、太郎の体から手を放した。自由になった太郎は小走りで由美に近付き、その足元にじゃれつき小さな鳴き声を立てた。
 太郎を抱き上げた由美は健治のいるキッチンまで来ずにそのまま居間に座り、そして太郎を抱き締めたままコロンと寝転んだ。
「随分飲んだから」
 独り言なのか健治に対しての言い訳なのか由美は呟き、そしてそのまま目を閉じた。
 由美の胸元で抱き締められたままの太郎は心地好いマクラの具合を確かめるように、由美の胸に顔を埋め、何度か顔を振った。

 しばらくはゴソゴソと動いていた太郎だったが、しばらくすると再び眠りについたのか静かになった。そして、由美はそんな太郎よりも随分前から眠っているようだった。
 冷え込む時期ではないが、そのまま寝ると風邪を引くかもしれない。そう思った健治は押し入れからタオルケットを引っ張りだし、由美の体の上に掛けてあげた。それから健治は少しだけ悩んだ。と、いうのも健治は寝る時には押し入れから布団を出し、居間の真ん中に布団をひいて眠ることを毎日繰り返していた。一人住まいの男にしては几帳面だと以前泊めてあげた山本が言っていたが、健治は引きっ放しにしておいた布団の感触と匂いがどうしても好きになれないのだった。
 引きっ放しの布団はばあちゃんの家で寝ていた時の布団の匂いがした。大きな田舎の家では昼間でも家の中までは光が差し込まず、几帳面に太陽に干しあった布団でもしばらくするとそんな埃っぽい湿った匂いになってしまうのだった。
 健治は押し入れから薄い掛け布団だけを取り出し、その布団にくるまるようにして横になった。くるまることで自分の体の自由を少しでも奪ってしまおうと考えたのだった。確かに、若い健治にとって魅力的な女性が同じ部屋で寝ていれば心が動かないはずはない。寝ている由美を見て何度も得体の知れない衝動が健治を動かそうとしたが、わずかに残る理性でそれを押しとどめていたのだった。
『据膳食わぬは男の恥』
 そんな古めかしい言葉が頭の中に浮かんではきたが、太郎を抱いて幸せそうに寝ている由美を見ると、それはやっぱりマズイかなと思えてくるのだった。
 結局、太郎を真ん中にして二人は『川』の字のように寝た。
 眠っているはずの健治ではあったが、隣で眠っている由美が少しでも動くと、意識は眠りの世界から引き戻されるのだった。そしてその都度、健治は違った夢を見た。
 夢の中では由美は嬉しそうにトマトを食べていた。ザルの中に盛ったトマトを次から次へと由美は食べ続けた。あんまり美味しそうに食べるので健治も一つ欲しくなりその中の残り少ない一つに手を伸ばした。トマトはザルの中で自らの意思であるかのように動き回り健治はなかなか掴むことができなかった。そしてようやく一つを掴んだ健治はトマトが生暖かいままであることを感じた。
「トマトは冷やして食べないと」
 健治が口から滴を垂らしながらむさぼるように食べ続けている由美に言うと、由美は食べる事をやめて微笑むだけで何も言わなかった。
 トマトを冷やすために健治は冷蔵庫を探すのだが、台所には冷蔵庫はなかった。結局、仏間の押し入れの中で冷蔵庫を見付けた健治が冷蔵庫のドアを開けるとその中で太郎は牛乳を飲んでいた。
「こんな中にいると死んでしまう」
 健治は太郎に言うのだが、太郎は冷蔵庫の中が気にいっているようで出てこようとはしなかった。
 生暖かいトマトを握り締めたまま健治は仏間に飾ってあるばあちゃんの白黒写真を見ていた。
 写真の中のばあちゃんは健治を見てたまらなく悲しそうな顔をした。

 太郎の泣き声で再び目を覚ました健治は由美がいなくなったのかと思って隣を見た。相変わらず由美は幸せそうに寝ていた。と、いっても健治に背中を向けて寝ているので由美の表情までは見えなかったが、背中からは安心し切っている雰囲気と、小さな寝息が伝わってきた。

 これまでも、健治は夜中にふと目を覚ますと田舎で送った何日間かの夏の日の事を思い出すことがあった。先程まで見ていた夢が引き金になったのか健治は田舎で暮らした数週間の事を思い出していた。
 母親は一度も会いには来なかった。健治をばあちゃんの所に連れて来たのも父親だったし、引取りに来たのも父親だった。幼かった健治には何を話していたのかわからなかったが、父親は来るたびにばあちゃんになじられていた。
 健治にはやさしかったばあちゃんが厳しい表情で父親を責め立て、父親は一言も言葉を返さず小さくなってうつむいていた事を思い出す。
 結局、健治の母親は離婚の原因を健治には一言も言わなかった。けれども、今から考えると父親に原因があったのではないかと健治は思っていた。
 帰りの車の中で一言も話をしない父親の隣に座って健治は楽しかった田舎生活での思い出を一言もしゃべらずに黙っていた。父親も健治にそんな事を聞こうともしなかったし、瞳を健治に向けることもしなかった。
 案外、由美が嫌気をさして逃げてきた男は健治の父親のような性格であったのかもわからない。由美の背中を見て、健治はふと思った。由美の寝息に合わせて呼吸をしているうちに健治は深い眠りについてしまった。

 朝日の眩しさで目を覚ました健治は、いつもは寝る時に引かれてあるカーテンがその日は何故だか開け放たれたままになっていることを寝ぼけた頭で考えていた。
 そして、自分がいつもの布団ではなく、カーペットの上にそのまま寝ていたことに気付き、昨夜の事を思い出した。
 女性と二人だけの空間ではカーテンを閉めることがはばかられ、健治はカーテンを開けたままにしておいたのだった。
 ようやく焦点が定まってきた頭の中で、健治は由美が今も部屋にいるのか確かめることを急に思い立った。
 昨夜、健治に背中を向けて寝ていた場所には由美の姿はなかった。代わりに、健治が由美に掛けてあげたタオルケットが綺麗に折り畳まれ、その上に太郎がチョコンと行儀よく座っていた。
「おはよう。夕べは眠れたかい」
 健治は太郎に声を掛けた。退屈していたのか太郎は小さくニャーと鳴き、健治の元に近かづいてきた。
「おはよう。ぐっすり眠れたわ。寝ている間にタオルケットを掛けてくれたのね」
 太郎に掛けた言葉だったが、洗面所から戻ってきた由美も顔をタオルで拭きながら健治に答えた。
「洗面所のタオルを借りたわ」
 たった今、使っていたタオルを振って由美は言った。

 テーブルには昨夜の残り物を上手く使った朝食が並んでいた。少し朝から食べるにはヘビーな気がする料理もあったが、時々健治が立ち寄る喫茶店のモーニング・サービスよりはかなりまともな朝食といえそうだった。
「父ちゃんにはがんばって働いてもらわないとね」
 コーヒーを二つならべたコーヒーカップに注ぎながら由美は楽しそうに言った。
 いつの間に着替えたのか由美の服装は昨日とは違っていた。これから出掛けていく服装ではない。ましてや出勤のために着替えた服にはとうてい見えなかった。
 コーヒーを一口飲んで、由美はこれからどうするんだろうか、と健治は考えていた。
 このまま健治の部屋に居着くつもりなのだろうか。それとも、健治が出勤してから出て行くつもりなんだろうか。
 少し焦げ目の付いた目玉焼きに塩を振り、確かめるように由美を見た。
 小気味良い音を立てて野菜サラダを食べていた由美は、健治に見詰められて少しだけ照れた表情を浮かべた。
「嫌だわ、ちょっと見詰めないでよ。今日はまだ化粧をしてないんだから。スッピンの顔なんてマザコンの彼にも見せたことがなかったのよ」
 部屋に差し込む朝日を正面から受けた由美の顔はしっとりと、そして輝いて見えた。とてもスッピンで由美が言うようなぼやけた顔には見えなかった。
「それでスッピンって言っちゃ世間の女の人に悪いよ。化粧しなくてもかなりまともだ。うちの会社の事務員じゃ君に太刀打ちできないね」
 嘘ではなかった。健治の会社の女子社員は誰もが化粧を厚く塗ってあり、横を通っただ