家出彼女とトマト猫 A

 れるはずはなかった。
「メスだと子どもを一杯生むわよ」
 その通りである。ますます猫を飼えない状態にある自分というものがわかってきた。
「今はまだ子猫だから放っておけば死んでしまう」
「誰か飼ってくれる人を探してみれば。私も何人か当たってあげるわ」
 積極的に物事を前に進めようとする恵子に対して曖昧な返事をして、会社の受け付けを通った。

 その日の仕事は特別難しい問題を抱えた仕事ではなかった。どちらかと言うとデスクワークだけで片が付く仕事だった。しかし、健治は仕事の間中難しい顔をしていた。もちろん子猫の事を考えていたのだが、それだけでもなかった。子猫と一緒に部屋にいるはずの女の子の事も十分健治の頭の中を一杯にしていた。
 一体誰なのだろう。どうしてあんな時間にあんな場所にいたのだろう。普段から近所付き合いをしていない健治は彼女が近所の人であっても知らないことは当然なのだが、朝の雰囲気から彼女は近所の人ではないようだった。そんな事より、健治が帰っても彼女はマンションに居るのだろうか。案外、その事が健治を悩ませていたのかもしれない。
 五時にタイムカードを押した健治は会社を後にした。玄関を出た所で山本が健治に誘いの言葉を掛けてきた。
 誘いを断るために、健治は猫の事を山本に話した。
「おいおい、ホステスなんかが良く使う手と同じじゃないか。猫なんて言って案外子猫みたいな可愛い女の子が待っているんじゃないのかい」
 とんでもない、というように健治は笑ってみせた。が、山本の言うことは間違っているというわけでもなかった。確かに子猫もいるが女の子も自分の帰りを待っているはずだった。

 駅からの帰りに健治はいつも立ち寄るコンビニで猫の餌を買った。アルバイトの店員はいつも立ち寄る健治とは顔見知りで、気安く言葉を掛けてきた。
「どうして猫の餌なんか買うんですか。何か違和感ありますねぇ」
「美味しいかなっと思ってさ。大丈夫なんだろ人間が食べてもさぁ」
「生臭くて食べられたもんじゃないと思うな。せめてカツオ節ぐらいでないと」
 健治の冗談に対してアルバイトはどこまで本気とも思えない言葉を返してきた。
 エレベーターの前に立った健治は朝の匂いを思い出し階段から上ることにした。
 起きた直ぐの階段も辛いが労働後の階段も辛い。しかもそれが上りとなると尚更辛いものがあった。

 ドアの前に立ち、少しだけ躊躇した後に健治はドアノブを握りしめゆっくりと回してみた。ドアノブはすんなりと回った。
 考えてみれば部屋の鍵は健治だけが持っているのであり、彼女が部屋を出て行ったとしてもそのままの状態で出て行くしか方法はなかったはずである。緊張した自分が少しだけ恥ずかしくなった。
 部屋に入ると玄関に女物の靴はなかった。その代わり、小さな箱があり、健治が帰ってきたことを知った子猫が甘えた声を出した。「一人で待ってたか。健気な奴だ。それはそ
うとお前と一緒に来た女の子はどこへ行ったか知らないかい。帰る時に何か言ってなかったかい」
 人間に話しかけるように言うのだが、やっぱり猫は猫でしかなく、しかも子猫であるため人間を喜ばそうなんて気持ちも持ち合わせていないのか、しきりに子猫は健治の腕の中で泣き続けるのだった。
「よしよし、キャットフードの試食会をするからそんなに情けない声を出すな」

 何日か前に食べたカップ麺の空容器を大雑把に洗って半分乾燥したキャットフードを適当に入れる。子猫は目の前に出されたキャットフードが食べ物かどうか少しだけ悩んだ素振りを見せた。しかし、次の瞬間には勢い良くキャツトフードを食べはじめた。
「うまいだろ。近所のコンビニで買ってきてやったんだから味わって食べろ」
 ガツガツと食べる猫を見ながら健治は猫に話しかけた。
 食欲旺盛な猫の食事を見ていると、健治も空腹と喉の渇きを覚えるのだった。
 健治の部屋には食料なんて置いてない。面倒だが一旦外に出てどこかの食堂に行くより健治の食欲を満たす方法はなかった。
「外でメシを食ってくるから、留守番をしていろ。猫さらいが来るといけないから、誰か来ても部屋の鍵を開けるんじゃないぞ」
 今まで来ていたスーツをハンガーに掛け、ネクタイのシワを延ばしてネクタイ掛けに掛ける。
 健治は帰ってきてスーツを脱ぐ時が嫌いだった。脱いでしまうと身に着けていたヨロイを取ったようで清々するのだが、脱ぐ作業が妙に女々しくて自分自分嫌になってくるのだった。
 バサッとスーツは脱いでしまいたいし、ネクタイもグイッと取ってポイッとその当たりに放り投げたい。しかし、一人住まいの健治にとって乱雑に脱ぎ捨てられたそれらの衣服は自分でハンガーに掛けるしか方法はなかった。彼女でもいて同棲でもしていれば服を綺麗にたたんでくれたり、シワを延ばして片付けてくれると思うのだが、ともかく現在の状況ではドウー・マイ・セルフしかなかった。 そんな女々しさに仕返しするかのようにワイシャツの脱ぎ方は荒っぽかった。ワイシャツは毎回クリーニングに出すからシワを気にする必要はなかったのだ。
 肩の凝らないポロシャツとジャージに着替えた健治は、あいかわらず猛烈な勢いでキャットフードを食べ続けている猫に言葉を掛けた。
「鶴の恩返しって話があるんだから猫の恩返しって話があってもいいだろう。綺麗な女の人にでも化けて俺の面倒でも見てくれよ」
 健治の言葉が猫の耳に届いたのか、猫は食べるのを止め、前足で顔から口の辺りを拭くのだった。それはまるで、お色直しをする女の人のしぐさのようでもあった。
「お前に過剰な期待をした俺が悪かった。今の話しはなかったものとしてくれ」

 健治が玄関に向かおうとした時、ガチャとドアノブが回る音がしてドアが開いた。
 入ってきたのは猫と一緒にくっ付いてきた女の子だった。
「帰ってきてたの」
 目を丸くして驚いたように言う彼女の台詞は、まるでここが彼女の部屋のように聞こえる台詞であった。何かを言うにも適当な言葉が見つからなかった。
「夕御飯の用意をしようと思って材料を買ってきたんだ。冷蔵庫には何も無かったでしょだから随分時間がかかっちゃった」
 よく見ると、彼女はパンパンに膨らんだビニール袋を両手に持っていた。
 この台詞にも健治は返答する言葉を見つけ出せずにいた。
「夕御飯まだなんでしょ」
 ここでようやく健治の口が開いた。
「うん」

 台所で料理を作る彼女を見ながら、健治は猫と話しを続けていた。
 健治の腕にスッポリと収まる子猫は腹一杯キャットフードを食べたから眠くなってきたのか、気持ち良さそうにしていた。
 首の辺りを軽くなでると、猫はとろけてしまいそうな表情をした。
「お前がここにいるってことは彼女は猫の化身じゃないってことだな。お前の恩返しじゃないってことは、どういうふうに考えればいいんだ」
 猫に問い掛けるのだが、猫は目を閉じて眠ったのか全然答えようともしなかった。
「味噌は無いの」
 彼女の後ろ姿をぼんやりと眺めていた健治は突然振り返った彼女に驚いてしまった。
「何、味噌って」
 突然の言葉に、健治の頭の中で彼女が言った味噌の正体を理解できずにいた。
「みそ汁に使う味噌」
 健治の狼狽ぶりを見て彼女が説明した。
 ようやく味噌の意味が理解できた健治はインスタントの味噌汁ならあると説明した。
 あきれた顔をした彼女は少しだけ考えるしぐさをした。
「お吸ましでいいか」
 独り言を言うと、醤油のボトルに手を出した。

 その時の状況は、少し前に健治が空想した同棲中の状況に近いものがあったが、その時の健治は自分の身を持て余し、居心地悪さを感じていた。
 それにしても彼女は一体何者なのだろう。健治の頭の中のどこを探っても、彼女に対する情報は、朝、出勤前に猫と一緒に拾った女の子というだけしかなかった。
 後ろから見ている限りでは、結構手際良く料理を作っている。若過ぎる女の子ではこうも手際良く料理は作れないだろう。そう考えるとやっぱり健治に近い年齢の女の子と考えられる。
 部屋を見渡すと、出掛ける前よりも片付いていた。元々、荷物の少ない健治の部屋は瞬間的には片付いているように見えるのだが、本当はきたなく汚れていて、部屋の隅には埃がたまっていた。だが今は、ホコリも綺麗に無くなっていた。健治が出勤してからも、彼女はこの部屋に居たことがわかる。
 そして、朝には無かったはずのバッグが部屋の隅に置いてあった。リュック型の黒いバッグで、最初に彼女を見た時には持っていなかったはずだから、どこからか持ち込んだ物に違いなかった。
 リュックから視線を外し、再び彼女に視線を向けるとほほ笑んで健治を見ている彼女の視線とぶつかってしまった。健治は頭の中で考えていたことが見透かされていたのではないかと、大いにうろたえてしまった。 
「どうしたの」
 考えてみれば、テレ隠しのために言った台詞ではあったが、「どうしたの」っていう台詞は、健治から彼女に向かって始めて言った言葉であった。

「できたの」
 ますます同棲中の男女の会話になってしまった。「できたの」なんて台詞はいよいよ妊娠してしまったというシチュエーションに必ず言われる台詞である。
 健治の癖は直ぐに頭の中で空想を始めてしまうことだった。その時も状況に相応しくない空想をしてしまいそうになっていた。
「あんまり美味しくないと思うんだけど」
 そう言いながら彼女は両手に皿を持ち、テーブルに並べ始めた。
 ミートボール入りのスパゲティと野菜サラダ。カボチャの煮物とお吸まし。取合わせとしては違和感があるが、一つ一つの料理は綺麗に作られていた。
 缶ビールの栓を開けグラスに注ぐ。それから二人はグラスを軽く合わせて乾杯をした。「何に乾杯?」
 成り行きで乾杯したが、考えてみれば十分不思議な乾杯だったので、ビールを一口飲んだ健治は質問した。
「当然、猫ちゃんと二人の出会いでしょ」
 言われてみれば、もっともだった。健治はレタスを口に入れた。
「名前は」
 彼女が聞いた。
 そう言えば、健治は彼女の名前を聞いてなかった。何度か聞こうとしたのだが、その都度不自然な感じがして口をつぐんでしまったのだった。それなのに彼女の方から先に名前を聞かれてしまった。
「健治」
 自分から先に自己紹介をしなければならない状況にやや不満気味の健治がぶっきらぼうに彼女に答えた。彼女は少しだけ考える素振りを見せた。
「いい名前ね。ケンジか。ケンジー」
 いやに馴々しく人の名前を呼ぶ女だ。健治はムッとした。
「まだ無理ね。そのうち自分の名前に慣れると思うわ」
 彼女は健治の名前を猫の名前と勘違いしているようだった。
「健治は俺の名前だよ」
 彼女はアレッという顔をした。それから、一人で笑い始めた。
「アハハハハ。御免なさい。私は猫の名前を尋ねたの。ハハハハハ」
 彼女の屈託のない笑い声につられて、健治も笑い始めた。
「御免なさい。私は大月由美。由美のユは自由の由。由美のミは美しいって書くの」
「ぼくは安部健治。健康の健におさめるって書く」
 ようやく、二人の自己紹介が終わった。名前を知ったからどうなるってもんじゃないが名無しのままより少しはいい。健治はもう少し彼女のことについて質問しようとした。しかし、その時二人の笑い声で起きてしまったのか、猫がテーブルに近付いてきた。
「御免ね、起こしちゃったのかな」
 今日一日一緒に居たからなのか、猫は由美になついており、由美の足元にジャレつき始めた。
「御飯は貰ったんでしょ。寂しくなったのかな」
 赤ん坊に言うように由美は言った。それから猫を抱き上げた。
「名前は何って付けよう」
 猫の頭をなでながら由美が健治に言った。何気なく聞いてはいるが、由美の目は真剣で健治の次の言葉を待っていた。
 健治は考え込んでしまった。直ぐに適当な名前が出てこなかった。それに、真剣なまなざしの由美に見つめられると安易な名前を口にすることもできなかった。 
「君が付けてやってくれよ」
 とうとう健治はギブアップした。
「いいの」
「いいさ。君になついているみたいだし」
 嬉しそうな顔をして由美は『太郎』と言った。
「いい名前でしょ。あなたが留守の間、ずっとこの猫を太郎って呼んでたんだ」
「健治よりはいい」
 部屋の中が一気に明るくなるような笑顔で由美はほほ笑んだ。
「別にケンジでもいいよ。ひよっとしてそっちの方がいいかもね」
 そう言うと、由美は猫に向かってケンジと呼んだ。
「やめてくれよ、ケンジが二人もいると複雑な感じがするよ」

 犬の名前のような太郎は自分の名前が太郎と決まったから安心したのか、再び由美の腕の中で眠ってしまった。
 茹で具合が難しいスパゲッティも申し分ない堅さに茹で上がっていた。ミートボールも市販のものではなく自分で作ったもののようだった。形が不揃いでかえってミートボールらしく見えた。由美の食欲は旺盛で、そりゃ猫の太郎と比べると随分上品だが、皿に盛った料理を次々とたいらげていた。
 それ以上に酒に強いのか、健治とほぼ同じペースでグラスを空にしてはビールをつぎたしていた。
「ワインの方が良かったかなぁ」
 四本目のロング缶が空になった時、由美が独り言のように呟いた。
「カボチャは嫌いなの」
 健治の皿を見て由美が言った。
「別に、嫌いじゃない」
「そう、さっきから見てるんだけど全然箸を付けてないよ」
 本当はトマトは好きになったが、カボチャは苦手になった食べ物だった。
 健治が田舎のばあちゃんの所で預かってもらっている間、ばあちゃんは毎日のようにカボチャの煮た物を食卓に並べた。後になってわかったのだが、季節柄カボチャがよく取れるから料理に登場しているのではなく、単にばあちゃんがカボチャが好きだからに違いなかった
 粉っぽくて喉に詰まりそうなカボチャの食感は食べれば食べる程、嫌いな食物の一つになっていた。
 当然、目の前の由美の味付けとばあちゃんの味付けは違うのだろうが、やっぱりカボチャの煮物は見ているだけでその感覚が思い出され、箸を付けずにいたのだった。
「いらないんだったら私が食べるよ」
 そう言うと、いきなり由美は箸を延ばしてきた。幾つかあったカボチャの一つを突き刺した由美はそのまま口に入れた。

 残ったカボチャを口に入れた健治は、思った通りの食感を口で感じながらも、味付けは確実に違うことを確かめていた。
 スッとテーブルから離れた由美は冷蔵庫に行き、製氷室から氷を取り出してきた。
「買ってきたの」
「氷ぐらいあるかなと思ったんだけど、無いと困るから買ってきたの。腐る物じゃないしね。正解だったわ」
 新しいグラスに不揃いな氷を入れ、買い物袋から取り出したバーボンを注いだ。
「それも買ってきたの」
「いいでしょ、ハーパーが好きなんだ」
 彼女は相当お酒に強いらしい。それにしても次から次に買ってきた商品が出てくる。相当額を出費したに違いない。お金は、所持金がいくらなのかは分からないが、持っているようだ。

 静かな空間の中で女の子と二人切りでいると、会話はいつまでも続く。同僚のだれかが仕事帰りに飲みに行った時に言っていた台詞だが、実際は途切れ途切れの会話に困ってしまっていた。
 同僚は恋人同士の場合の事を言っていたのだろう。健治は自分と彼女の関係は何て表現すればいいのだろうかと、少しだけ酔いが回り始めた頭の中で考えていた。
「家出」
 思い切って聞いてみた。
「家は近いの」
 由美の返事を待たずに次の質問も口から出た。
「気になる」
 イタズラっぽい表情で由美が健治の瞳を見詰めた。結構色っぽいが、瞳の奥には何か得体の知れない感覚がうごめいていた。健治は質問した事を後悔した。
 結局、由美は自分の事は何一ついわなかった。本当に何も言わなかった。例えば、十分後にはどうしようと思っているのか、とか。今夜はどうしようと思っているのか、とか。
 質問の出鼻を挫かれた健治は彼女の出方を待つだけの時間を過ごさなくてはならなくなっていた。
 重苦しい雰囲気を感じていたのは健治だけだったのかもしれないが、健治はその雰囲気を払拭しようとテレビのリモコンを操って映像をモニターに映し出した。
 突然流れた音楽に太郎はピクッと体を硬直させた。太郎の動揺に気付いた健治はさらにリモコンを操って音声を消してチャンネルを回し続けた。
「大丈夫よ、起きたって。私たちがいて安心すれば又眠るわよ」
 うろたえ気味の健治を見て由美はおかしそうに笑いながら言った。

 テレビの画面にはバライティー番組が映っていた。
 いかにも低予算で作られた番組は騒々しいだけを売り物にしているようで、見ている人間を、その騒々しさと反比例させて憂鬱にさせていきそうだった。
「いつも見ている番組はないの」
 尋ねてしまってから健治は、またしても由美の事に触れてしまったことを後悔した。
「テレビは見ないの」
 素っ気ない返事は自分の事に触れられたことに対する抗議のように健治には響いた。

 聞くまいと気にすればする程、健治の心の中は由美の正体を知りたい欲望ではち切れそうになっていた。知ったところでどうなるってものでもないのは分かってはいるが、落ち着かない状態だった。まるで、会話の途中で映画の主人公の名前を忘れて映画のストーリーを説明しているようで、苛立たちさも感じるのだった。

 酔いは少しの心の動きも大きく増幅させてしまう。健治の感じているもどかしさは怒りに近い感情となって由美に向けられるのだった。
「ハンディがありすぎる」
 我慢の限界に達した健治が言った。
「何」
 言葉の意味が飲み込めないらしくて由美が不思議そうな顔をした。
「だってぼくは君に住家まで知られてしまったし、言ってみれば生活までのぞかれてしまった。それなのにぼくは君の事を何も知らない。名前だってほんの少し前に知ったばかりだ」
 健治の剣幕が激しく、強いものであったために由美はキョトンとしていた。
「太郎だって少し前に名前が決まったばかりよ。親の事だって知らないし、どこで生まれたのかも知らないわ」
「猫と人間は違う」
「ニャ〜」
 健治の剣幕をはぐらかすかのようにおどけた調子で由美が言った。