家出彼女とトマト猫 @

 いつからだろう。記憶の底を手繰ってみても思い当たる節がない。確かに昔は苦手としていた味の一つだった。だった、というのも昔の健治は偏食が激しく、ことごとく周りの大人達を困らせていた。そんな健治が洗ったばかりのトマトの、水滴が丸く隆起した丸い球面に歯を立てていた。

 給食の時間は苦痛な時間の一つだった。担任の先生は好き嫌いを無くすことに熱心で、彼女にとって教育とは、偏食をさせないことが全てだった。
「戦争中は好き嫌いなんて言ってられなかったのよ」
 決まって言う担任の口癖は、多分彼女の父親か母親の受け売りだったのだろう。まさか彼女が戦時中に好き嫌いを言えるような年齢で、その後、健治の担任をしているなんて思えなかった
 そして、給食調理のおばさんは健治の好き嫌いを全て見抜いているかのように健治の苦手な材料を原形を損なわないようにふんだんに使った給食を作っていた。それは健治以外の何人かの偏食児童にも当てはまっていたようで評判はすこぶる悪かった。
 努力をしようにも体が受け付けなかった。毎日給仕係りの生徒が盛ってくれたおかず類を形をそのままに残しては、みんなの見ている前で大袈裟になじられた。そして、それで許してもらえるのかと言うと、そうではなく給食の後の休憩時間も教室の片隅で食べ続けさせられていた。
 偏食児童は健治一人ではなかったはずだが、他の連中は巧妙に細工や工夫をしては嫌いなおかずを残していた。今から考えると、パンを残すことに関しては担任は黙認していたから、多分パンの中をくりぬいて嫌いなおかずを詰め込んでいたのだろう。
 しかし誰一人、そんな高等技術を健治に伝授してはくれなかった。
 今でこそ高級品だが、健治が小学校の頃は鯨の肉がたびたびメニューに登場した。鯨の肉を有り難がって食べる奴の気持ちがどうしても知れない。鯨の肉ときたらゴムのように堅くて、どんなに健康な小学生の歯でかみ切ろうと努力しても簡単にかみ切れるような代物ではなかった。おまけに繊維質が直ぐに歯の間に挟まってしまうし、噛み締めていると味がすぐに無くなってしまった。残るのは、生臭い獣の味だけで、その匂いは口の中から簡単には消えることはなかった。幕が張った脱脂粉乳で鯨の肉を飲み込もうとしても、その味を何倍も強烈なものにした。
 そんな健治の偏食歴の中で特に強敵だったのはトマトだった。トマトはばあちゃんが家の側にあった小さな畑で雑多な作物と一緒に育てていた。
 スーパーなんかで綺麗にラップで包まれたトマトじゃない。小さいものや大きいものなど、不揃いなトマトがいつもザルに入っていた。完熟なんて言葉があるが、何をさして完熟というのだろう。
 健治が幼い頃に食べたトマトは夏の強い陽射しを浴びてこれ以上熟することができないくらい熟れ切っていた。それなのに、ヘタの近辺が若い頃のトマトの様子を物語っているかのように緑色のままだった。そのヘタの所から熟れ切ったトマトは我慢できないって言っているようにヒビが入っていた。要するにはち切れていた。
 倹約家と言っていいのだろうか。ばあちゃんはそのトマトを冷蔵庫にではなく水道の水に漬けて冷やしていた。しかもそれは水を出しっ放しにしているわけじゃないからトマトはいつも生温いトマトだった。ばあちゃんも気を効かせて井戸の水なんかでトマトを冷やしてくれていたら、もしかすると健治はそれ程トマトが嫌いになっていなかったかもしれない。
 その生暖かいトマトをばあちゃんは三ミリ幅に切って皿に並べた。その上からばあちゃんは湿気を吸って固まった砂糖を細かく砕いてはまぶすのだった。
 砂糖にトマトの赤い果汁が染み込み砂糖はみるみる赤く染まっていく。見た目にも最悪なトマトは食べると更に地上最悪の食べ物に変身した。
 タネが口の中でゴニョゴニョと動き回る。タネは回りをぬるっとしたゼラチン状の物質で覆われているからともかく元気良く口の中で動き回った。その食感がたまらなく嫌だった。カエルの卵を食べると多分こんな食感がするんだろうと想像できた。
 次に口が悲鳴を上げるのは、青くさいスイカのような香りであり、妙に酸っぱい果肉の登場だった。キリギリスの好きな夏野菜の匂いだ。
 ばあちゃんは一番大きい所をわざわざ選んで健治にくれた。それは当然ど真ん中の部分になる。ど真ん中はヘタの所に近い緑の部分も多い。いつも健治はヘタを一杯残すように工夫して食べたのだが、ヘタから漂ってくる青臭い香りは健治の意思に反して口の中に広がった。
 太陽を一杯浴びた不格好なキュウリの香りがした。ばあちゃんの作ったキュウリはトゲトゲが一杯あってヘタの所にはかつての面影を残す花の萎んだ跡があった。ばあちゃんの畑ではトマトの横にキュウリを植えるからトマトの青い部分はキュウリの香りが染み付いていて青臭い香りがするのだと、大きくなるまで健治は信じ込んでいた。

 どうして健治はあの年、ひと夏の間ばあちゃんの家にいたのだろう。夏が終わってから両親が別々に住み始めたから、案外そんなことが健治が時代はずれの疎開をした原因かもしれない。
 昔は苦手だったトマトが今は普通に食べることができる。いや、それ以上にトマトは健治の好きな食べ物の一つになった。夏場の太陽を一杯浴びたトマトは好物の一つといってもいいくらだ。健治の好きな食べ物ベストテンをあげると必ずランクインするだろう。
 いつからトマトを食べられるようになったのか今となっては忘れてしまったが、トマトを食べるとばあちゃんを思い出す。思い出の中のばあちゃんは特別優しい人でもなかったし、怖い人でもなかった。今では曖昧な記憶しか残っていない。ただ、健治のために何かをしてくれたのはばあちゃんと母親だけだったから、健治がトマトを好きになったのかもしれない。
 三年後、母親に連れられてわずかの間少年時代を過ごした田舎に戻った健治は、綺麗に飾られた祭壇の上で笑ったばあちゃんの写真を見た。
 じいちゃんは戦時中にサイパンで戦死したそうで、仏壇の上にはばあちゃんとはまったく不似合いな、若い頃の軍服姿の写真が残っていた。
 大きくなるまで写真の中のじいちゃんとばあちゃんが夫婦だったなんて信じることができなかった。それくらいじいちゃんは紅顔の美少年の状態の時にその命を絶ってしまったのだ。もし、あの世というものが存在するなら、祭壇の上に飾られたばあちゃんと、仏壇の上に飾られたじいちゃんはあの世で会った時にどんな話をするのだろう。お互いを認識することができるのだろうか。 

 思いっ切り冷えたトマトが食べたいのだが、記憶の中のトマトは生暖かいトマトだった。だから健治は冷やすことに躊躇してしまう。でも、冷やした方が美味しいことがわかっているので、健治は少しの後ろめたさを感じながらもトマトを冷蔵庫で冷やす。
 ただし砂糖はかけない。そのままかぶりつく。

 昔、トマトとソーセージ。コンビーフとビスケットを朝食に食べるシーンが冒頭に流れるドラマがあった。新聞をナプキンの代わりに首に巻き、ひたすら感情を押し殺して食べ続けるのだ。健治たちが十代の頃に流行したそのドラマのシーンは当時の男の子の誰もがそれを真似た。だから何年かして本式のレストランで食事をした時にナプキンを首に巻いて相当恥ずかしい思いをした。
 そんな思い出も今となっては懐かしい。

 ボーナスが出た日に志帆と待ち合わせをして大きなビルの地下にあるレストランに行った。それまでレストランで食事なんてしたことがなかったから、どの店で食事をするかなんて今から考えると他愛もないことを何日も前から悩んでいた。結局、同期の山本に相談してその店に電話を入れた。前もって予約をしてあったからウエイターは健治たちを少し奥まった席に案内してくれた。その場所からだと、健治たち二人は他の客からは好奇の目で見られることなく食事をとり、会話を楽しむことができた。そこで健治はナプキンを首に巻いた。最初、志帆はそんな健治を見て冗談でやっているのだと思っていたようで、楽しそうに微笑んで健治を見ていた。ところが、ウエイターが前菜を持ってきても健治はナプキンを首に巻いたままだった。志帆は健治を少しだけ睨み付けた。その志帆の視線で健治はすべての間違いに気付いたのだった。
 それから何か月かして、ちょっとした気持ちの行き違いで志帆と別れてしまった。

 ショートパンツ姿の健治はトマトの汁が口元から垂れないように気をつけながらワイシャツに袖を通す。トースト一枚が朝食というビジネスマンは多いのだろうが、トマト一個が朝食の代わりという人間は少ないに違いない。サラダだけというOLは健治の会社にもいるが、彼女達から見れば、案外健治は時代の最先端にいるのかもしれない。
 それにしても、最近のトマトは昔のトマトとは全然味が違う。完熟と書かれたステッカーが張り付けられたパッケージに入ったトマトしか店先には並ばない。
 完全に熟したと言うわりには昔のトマト、つまり本当のトマトの青臭い香りが鼻をついてこない。特に二日酔いの朝なんかは無味無臭のレタスを固めて食べているような感覚がトマトを食べ終わるまでずっと続いている。 
 それにしても、今日はいい天気だ。テレビのアナウンサーは今日も真夏日が続きますと少々ウンザリした調子で言っていた。それを聞いた健治はアナウンサー以上に気持ちが滅入ってしまった。健治は主婦じゃない。晴天が続いたからって洗濯物を干すわけじゃないから特別いいことはない。

 部屋に鍵を掛けたことを何度もドアノブを回して確認してから鍵束の音を景気良く響かせてマンションのエレベーターに向かった。 健治が出勤する時間は学生達の通学の時間とは少し差があるために比較的エレベーターが空いているが、彼等と一緒の時間にブチ当たるとなかなか降りてこないし、やっとドアが開いたと思っても中は身動き一つできないような状態で、何度もエレベーターを見送っては、結局諦めて非常階段から降りて行くことが多かった。
 かたつむりのようにゆっくりと降りてきたエレベーターがようやく三階で止まった。ドアが開くと中には誰も乗っていなかった。
 一歩エレベーターに入ると小さな箱の中はにんにくの匂いで充満していた。とても我慢できる匂いではなかった。急いで回れ右をすると階段に向かった。

 普通のマンションの非常階段なんかは建物の外にあると思うのだが、健治の住むマンションの非常階段は建物のちょうど真ん中にあった。つまり階段の空間を真ん中に巨大な煙突の形をしたマンションなのだ。
 その階段を降りて行く。建物の真ん中にある階段は天井が無いから昼間は明るい。
 降り切った所にゴミ集積所がある。最近特に分別収集にやかましくなった管理人がいつも目を光らせている。だから夏場でも臭い匂いがして住民から苦情が出たことはない。
 どこかで赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。少しハスキーな声の赤ん坊だ。よっぽど腹が空いているのか、じゃないとしたらオムツが濡れて気持ちが悪いのかどちらかだろう。一向に泣きやもうとはしない。小さな赤ん坊のいる家庭だから、多分親も若い夫婦なのだろう。ひよっとしたら健治とそれ程年齢が違わない夫婦なのかもしれない。
 そんな事を考えるとはなしに考えながら階段を降りて行くと、赤ん坊の泣き声がゴミ集積所から聞こえていることに気がついた。
『捨て子』
 一瞬、悲しい人生を背負った幼子の姿が頭をよぎった。
 しかし、よ〜く聞いてみると、赤ん坊と思って聞いていた泣き声は、人間の声には似ているが、どこか違う気配がしていないでもなかった。
 声の主はゴミ集積所の横に置かれた半透明のビニール袋の中から聞こえてきた。覗き込むと真っ白なフワフワの子猫が一匹。
 自分の存在をアピールするかのように一生懸命泣いていた子猫は、健治という人間に存在を知られたからなのか泣き方を変えた。甘えるように泣き始めた猫は健治を簡単には会社に行かせてくれそうになかった。
「俺でいいのかい」
 そう言って抱き上げると白い猫は健治から離れまいとして一生懸命しがみついてくるのだった。
 せっかくトマトの汁をこぼさないように気をつけたシャツなのに、子猫の足に付いていた泥で汚れてしまった。
「ありゃ、せっかくのシャツがドロドロになったぞ。お前のせいだ何とかしろ」

 汚れたシャツと子猫のせいでそのまま会社には行けなくなった健治は、とりあえず着替えるために猫を抱いたまま階段を上った。「その猫どうするの」
 階段の下から声が聞こえてきた。誰もいないと思って猫と話をしていただけに不意の問い掛けはドキッとした。

「どうすればいいのか少しだけ悩んでいる」 誰が言ったのかもわからないが、うろたえてしまった事を悟られないようにわざと平静さを装って答えた。それからゆっくりと下を見ると二十歳くらいの女の子が健治と猫を見上げていた。年齢は二十歳くらいに見えるのだが、その女の人は明らかに女の子という表現が似合っていた。もしかすると、健治よりも年上かもしれない。
 不思議な感じの女の子、いや、女の人だった。
「君の猫なら返すけど…」
 彼女の表情に変化はなく、何を考えているのか読み取ることはできなかった。
「私の猫じゃありません」
「じゃあ、どうして」
「気になって」
 突然健治と猫の前に登場した、少しだけ謎に包まれた女の人との会話。まんざらでもなかった。妙に耳に心地好く言葉の一言一言が飛び込んで来た。そんな感覚をもう少し楽しみたかったけれど、出勤時間が気になった健治は部屋に向かった。それきりの関係で終わってしまうのかと少々残念に思いながら健治は階段を上がった。
 意外にも彼女は少しの距離を取って健治の後を付いてきた。
「どうするんですか」
 心配そうな顔で彼女は健治にたずねた。
「大丈夫。三味線の皮にもしないし、食べてしまう気もない」
 健治は彼女の存在が気になったままで部屋の鍵を開けた。そしてドアが閉じてしまわないようにストッパーを掛け、部屋の中に入って行った。ドアを閉じれば、彼女が健治の部屋の前からいなくなると思ったからだ。
 冷蔵庫のドアを開き中からパックに入った牛乳を出す。手頃な大きさの小さな皿に牛乳を入れた。
「あっ」
 小さく呟くと彼女が「おじゃまします」とも言わずに部屋に入ってきた。
「生まれたばかりの子猫には冷蔵庫で冷えきった牛乳はよくないわ」
 言った事が正しいことはよくわかった。確かに自炊の習慣がない健治の部屋の冷蔵庫はビールとチーズと少しの食料しか入っていないガラガラの状態だった。冷気が良く回るのか牛乳は特別冷えていた。そんな牛乳をそのまま飲ませれば子猫はびっくりしてしまうだろう。あるいは、腹を壊してしまうかもしれない。
「どうすればいいのかな」
 自分自身に問い掛けるように呟いた。
「レンジで少しだけ暖めてからあげるといいと思うわ」
 彼女の提案には返事をせず、健治は皿に入った牛乳をレンジに入れて暖めた。
「猫舌って言葉があるくらいだから暖め過ぎはダメよ」
 言われなくてもわかっている。少し暖まったかなというくらいで健治は牛乳を電子レンジから取り出して猫に与えた。
 美味しそうに牛乳を舐める猫のしぐさに見とれていると健治の直ぐ横に彼女の顔があった。
 いい香りがした。石鹸でもない、香水でもない、彼女の香りがした。
 相変わらず猫は牛乳を飲み続けていた。

 彼女の存在を無視して健治はシャツを着替えるためにドレッサーに行きシャツを取り出した。汚れたシャツを脱ぐ時に彼女の視線が気になり、彼女を見たが彼女は相変わらず猫のしぐさに見とれたままで健治の事なんて少しも気にしていないようだった。
 自分の部屋で着替えをするのに人の視線を気にすることにバカらしさを覚えた健治は彼女を無視して着替えを始めた。

 ほんの数分前に階段を降りた時と同じように階段を降りて行く。しかし数分前とはあきらかに違っていた。
 ドアに鍵を掛けなかったし、何よりも主のいない部屋には猫と女の子がいた。

「会社に行かなければならない」
 部屋を出る時に、健治は彼女との関係を断ち切るように彼女に言った。休日であれば、もう少し気の利いた台詞が口から出たのだろうが、口やかましい課長の顔がチラ付く状態ではそんな台詞は頭のどこを探しても見付けることさえできなかった。
「生まれたばかりなのよ。一人じゃ心細いでしょ」
 健治に言った言葉なのか、猫に言った言葉なのか。ともかく彼女は猫の喉元を撫でながら楽しそうにしていた。
 途方にくれている健治の気持ちが通じないのか、彼女は健治の部屋に居座ったまま健治を見送った。
「よかったね。お腹が一杯になったね」
 いつまでも部屋を出て行こうとしない彼女の言葉を背中に聞いて健治は部屋を出た。出て行く時に彼女の名前を聞こうかと思ったけれど、聞いたところでどうってことはないからそのまま部屋を出た。
 それにしても、まったくどういうことなんだろう。部屋に見ず知らずの他人を残したまま会社に行くなんて。それ以上に見ず知らずの男の部屋に居座る女の子なんて。

 心地好く冷房が利いた電車に揺られながら健治は猫のことを考えていた。しかし、どんなに考えてみても一人住まいのマンションで猫を飼うことは不可能なことだった。
 ばあちゃんの家では三毛猫がいた。確かにばあちゃん家の猫なのだが、一夏ばあちゃんの家にいて、その猫とは数えるくらいしか顔を合わしたことがなかった。何度か庭をゆっくりと横切る姿を見たけれど、猫は誰に指図されることなく自由気ままに生活していた。
 狭くて閉め切ったマンションで飼われる猫のことを思うと不憫な気がしてこないでもなかった。
 会社のある駅のプラットホームに電車が着いた。健治は頭の中から猫の事を追い出して電車から出た後の殺人的ともいえる湿気と暑さの攻撃に耐えるための心の準備をした。
 思った通り埃っぽいプラットホームは目まいがするほど不快な空間だった。健治はまるで死人が漂うかのように改札口を目指した。 着替えたばかりのワイシャツは汗で濡れ始め体にへばりついていた。どうしようもなく嫌で仕方なかったけれど、その事を考えると余計に辛くなるから全ての思考を停止して、ただ歩くことだけに専念した。
「相変わらず覇気がないわねぇ」
 後ろから声がした。健治に対しての台詞であることははっきりとしていた。その証拠に声の主はもう一度同じ台詞を先程とまったく同じトーンで、しかも健治の肩の辺りをつつきながら言った。
 相手が誰であっても肩をつつきながら話しをするのは水上恵子の悪いクセである。
 彼女は健治と同期で入社した。ただ、彼女は短期大学を卒業してから入社したから健治よりは二つ年下になる。形の良いヒップが彼女の自慢らしくて彼女はいつも体にピッタリと張り付くようなタイトスカートを履いていた。男性社員憧れの的の彼女だが、その彼女と三回食事に行き一度ベットをともにしたことがある。
 ベタベタすることが嫌いな性格らしくて関係を持ってからも健治と彼女は恋人という関係に見られたことはない。健治自身彼女との関係は同期という表現だけがピッタリくる関係だと思っている。案外、彼女の本命は他にいるのかもしれなかった。
「こんな調子で一日の勤労に耐えることができるの」
「俺は無駄な力は使わない主義なんだ」
「じゃあ、五時まで男っていうわけだ」
「いや、五時からのために力は温存している男なんだ」
「そう、じゃあ五時から男の本性を見せてもらおうかな」
 デートの誘いであることは鈍感な健治にも直ぐにわかった。特に今日の彼女のタイトスカートはセクシーで、五時から一緒に過ごすには申し分なかった。
「喜んでって言いたいところだけれど、残念ながら今日は用事ができた」
「変な断り方ね」
「朝、出勤する前に一匹の猫のオーナーになった」
「猫、猫ってニャーって泣く猫のこと」
「そうだよ」
 恵子は不信気な顔をして健治の顔を見直した。
「捨て猫なの」
「そんな言い方がピッタリくる猫だ。その猫の将来について本人を前に考えなければならない」
「安部さんはマンション住まいだったわよねぇ」
「だから困っている」
「犬ならともかく猫じゃ狭いマンションで飼うことはちょっと無理ねぇ」
「俺もそこまでは考えた」
「その猫ってオスなのメスなの」
 恵子に言われて猫の性別は何だったっけと考えたけれど、確認してなかったので答えら