松尾家は平家の流れをくむといわれています。与左衛門は、無足人と呼ばれる地侍クラスの農民で伊賀の国阿拝郡柘植郷の生まれ、柘植の土豪柘植七党の松尾氏の血をひいており、後に上野赤坂に移り住みました。無足人は苗字帯刀も許され、一定の労役などは免除されるなど、苗字持ちの皆無に等しい町内で、それ相応のステイタスを保った存在であったことがわかります。明暦2年(1656)芭蕉13歳の2月18日に没。松尾家の菩提寺上野農人町の愛染院に葬られました。 【生年不詳〜明暦2年(1656)】
母は藩侯の移封とともに伊賀名張に移ってきた百地氏の娘といわれ、父と同様一定の格式をもった家の娘であったといわれています。2男4女をもうけ、芭蕉は次男になる。天和3年(1683年)芭蕉40歳の6月20日に没。松尾家の菩提寺上野農人町の愛染院に葬られました。 【生没年不詳〜天和3年(1683)】
芭蕉の兄。松尾与左衛門の(2男4女の)長男で松尾家の当主。書道師範をしていたともいわれています。先妻を失い、再婚したともいわれています。半左衛門に宛てた芭蕉の書簡は6通現存しており、芭蕉の遺書「松尾半左衛門宛遺言状」は上野市の芭蕉記念館に保存されています。 【生没年不詳〜元禄14年(1701)】
芭蕉の姉妹は甥桃印の実母にあたると推定される姉、片野氏に嫁した妹、堀内氏に嫁した妹、末妹およしの1姉3妹。通説ではおよしは長兄半左衛門の実子又右衛門の没後、半左衛門の養女となり後に松尾家を継いだと考えられています。 【生没年不詳〜天和3年(1683)】
芭蕉の姉の子供で甥であるということだけが伝えられている。芭蕉が伊賀在住中の寛文5(1665)、6年ころ、夫と死別した姉が松尾家に戻ったときに同道してきたのが桃印であるとする説がある。桃印5、6歳の頃で、芭蕉は22、3歳。芭蕉は桃印に格別の憐憫を加え、延宝4年(1676)の帰郷の際に、一緒に江戸に連れていった。芭蕉の桃印に対する愛情は並々ではなく、33歳という若さでの桃印の死に落胆した芭蕉は自らの生への執着をも喪失した風がある。「許六宛書簡」にその時の心情が吐露されている。また、桃印重態のため借金をせざるを得なくなった芭蕉は膳所の門人曲水に宛ててた書簡で1両2分工面してくれるよう依頼している。 【生年不詳〜元禄6年(1693)3月】
本名は天野勘兵衛。通称、藤太夫。元藤堂藩士であったが、はやく致士したと伝えられています。芭蕉とはかなり親しい間柄であって、朋友とも、従弟とも、また甥ともいわれるが、詳しいことは判明されていない。 【寛永16年(1639)〜享保4年(1719)】
本名は山岸重(十)左衛門棟常。藤堂玄蕃家の家老である。延宝4年(1676)の芭蕉帰省のおりには、自宅で俳席を設けています。以後立机した芭蕉に対し師礼をとり、伊賀蕉門の形成に積極的に係わった。ことに「猿蓑」編集時には武家俳人の筆頭として土芳と共に活躍、伊賀俳人として最高の8句の入句を果たしています。また、子供の車来や父親の陽和も、芭蕉俳人の列に加わっています。 【承応3年(1654)〜享保11年(1726)】
本名は服部半左衛門保英。米問屋木津孫次良保何の五男として生まれるが、幼くして藩士服部家の養嗣子となり、槍術をもって藤堂家に仕えた。俳号は芦馬、土芳。貞享5年(1688)3月に致仕して、隠栖、その庵号を蓑虫庵(些中庵)と称した。入庵以後、俳諧を職業とする俳諧宗匠になったわけではないが、俳諧専心の風雅な生活を始め、生涯独身で通した。商家に出て武家を嗣ぐという経歴が、おのずから武家俳人と商人俳人の交流を促進する結果をもたらし、伊賀蕉門の中心としてその重責を果たしました。ことに師の教えを忠実に筆録したといわれる「三冊子」(元禄15年成)を残したことは特筆すべき功績といえます。この他信憑性の高い記録・資料として「横日記」「庵日記」「蓑虫庵集」「蕉翁句集」「蕉翁文集」「蕉翁句集草稿」などを残しています。 【明暦2年(1656)〜享保15年(1730)】
本名は片野良久。通称、新蔵。屋号、井筒屋という伊賀上野の豪商。元禄7年(1694)の芭蕉帰省時には、積極的に教えを仰いでいる。芭蕉の妹の婚家、片野氏の縁者であるといわれています。 【明暦3年(1657)〜宝永2年(1705)】
判明している中では芭蕉が愛した唯一の女性。彼女は、一男(次郎兵衛)二女(まさ・おふう)をもつが彼らは芭蕉の実子ではないらしい。芭蕉との関係は若いときからだという説、妾であったとする説などがあるが詳細は不明。ただ、芭蕉が彼女を愛していたことは、「松村猪兵衛宛真蹟書簡」や、「数ならぬ身となおもひそ玉祭」などの句に激しく表出されていることから読み取ることができる。 寿貞は、芭蕉が次郎兵衛を伴って最後に上方に上った元禄7年6月2日、深川芭蕉庵にて死去。享年不詳。芭蕉は、6月8日京都嵯峨にあった去来の別邸落柿舎にてこれを知る。 なお、伊賀上野の念仏時の過去帳には、元禄7年6月2日の條に中尾源左衛門が施主になって「松誉寿貞」という人の葬儀がとり行われたという記述があるという。言うまでもなく、この人こそ寿貞尼であるが、6月2日は出来過ぎである。 寿貞尼の芭蕉妾説は、風律稿『こばなし』のなかで他ならぬ門人の野坡が語った話として、「寿貞は翁の若き時の妾にてとく尼になりしなり」が残っていることによる。 【生年不詳〜享保19年(1734)】