芭蕉と伊賀 -芭蕉生誕360年-
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伊賀の歴史と風土
■伊賀の歴史と風土
伊賀の歴史と風土
伊賀の街並み
 芭蕉が生まれ育ち、29歳までここで暮らし、江戸に出た後も、頻繁に生家に出入りした、芭蕉の故郷伊賀上野は、東を鈴鹿山脈、南を紀伊山脈、西を奈良・笠置山地、北を水口丘陵地に囲まれた東西15km、南北20kmの伊賀盆地の北辺に位置する町である。標高150m、夏暑く、冬は底冷えと時雨が名物の土地である。
  奈良より東へ30km、飛鳥・大和朝の頃より、大和から東方へ通ずる交通の要衝であり、また淀川の支流木津川の源流域であり、経済・文化的には江戸時代まで完全に大阪・京都・奈良近畿圏の中にあった。言葉は完全な関西アクセントである。
  上野市は人口63,000人、江戸初期に構築された上野城跡と城下町が戦災に遭わずそのまま残る山河の小京都であり、お茶・お花・俳句をはじめ、コーラス・フォークダンス・文芸勉強会等特に御婦人方の文化サークル活動の盛んな土地柄である。
  伊賀盆地は豊かな土壌と水に恵まれ、古くから農林業が盛んであり、今も伊賀米、伊賀酒、伊賀牛などは全国に誇るブランド産品である。その一方、名阪国道の便により、各種工場が進出し、小工業都市にもなりつつある。
■伊賀惣国一揆
伊賀の歴史と風土
惣国一揆衆の一つ無量寿福寺
  伊賀は鎌倉末期まで、その土地の9割が東大寺等の荘園としてその支配下にあったが、次第に荘園内の武装農民が力を蓄え、団結して荘園主の指示を拒否するようになり、南北朝動乱期から室町、戦国時代にかけて、数ヶ村を支配する地侍・土豪(国人という)の自治連合体ができ、用水や入会地の自主管理を行うと共に、他国からの侵略に対しては一致協力してこれに当たる等の盟約が交わされていた。また隣接する近江甲賀郡の惣一揆とも連絡協力して、在地領主権を守ろうとしたようである。(久保文武氏監修「伊賀の歴史」より)
  こういう環境の中から、諜報出稼ぎ技術「忍びの術」が出てきたのではないかと想像される。
■天正伊賀の乱
 1581年9月に起きた「天正伊賀の乱」は その3年前の1578年、伊勢の北畠信雄(織田信長の三男)は伊賀侵攻の拠点とするべく伊賀神戸の地に丸山城を構築し始めたが、伊賀の地侍・百田藤兵衛らがこれに先制攻撃をかけ、城を焼き払った。 十分な準備もせず1579年9月報復攻撃を実施したが、 山岳戦で迎え撃った伊賀勢に大打撃を受け、大半の部下を亡くしてしまう。当時京にいた父信長は「言語道断曲事の次第に候」(信長公記)と激怒。
 2年後の1581年9月、信長は天下布武の旗印のもと、伊賀を徹底的に殲滅する作戦に出た。信雄を総大将に丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷ら錚々たる面々と数万の大軍を周囲六道から一斉に攻め込ませた。迎え撃つ伊賀勢は約九千、あっという間に伊賀各地の神社仏閣・城砦は焼き払われた。伊賀勢はほぼ全滅に近い打撃を受けた。
■伊賀上野城
伊賀上野城
日本一高い石垣を持つ伊賀上野城
 伊賀全土を焦土と化した「天正伊賀の乱」後、秀吉の時代に大和郡山から伊賀国に移封された筒井定次は、直ちにこの乱によって焼かれた平楽寺跡に城郭を築き、三層の天守を構え、殿門を整えた。
 秀吉の没後、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、豊臣政権の継承者としての地位を確立するに及んで、家康は慶長13年(1608)、定次を失政の理由をもって改易、筒井氏改易のあと、伊賀・伊勢両国の城主として、伊予から移ってきた藤堂高虎は、「津は平城なり。当座の休息所までと思うべし。伊賀は秘蔵の国、上野は要害の地、根拠と思うべし。」との家康からの密命を受け、筒井の故城を拡張して大改修に着手した。
 当時、戦国武将のなかでも築城の名人と評されていた高虎は、自ら縄張りを指図、目前に迫る豊臣氏討伐戦に備えるため、地山を利用して濠を深くし、30mの高石垣で囲み五層の大天守を築いた。ところが、竣工直前の慶長7年(1612)9月2日、暴風雨のため天守が倒壊、そのうち大坂夏の陣で豊臣方が滅亡したのと、いわゆる元和偃武以後の武家諸法度によって諸大名の城普請を禁止したので、この城は再びたてられることがなく明治維新を迎えた。
 現在の伊賀上野城(雅名白鳳城)は、昭和10年(1935)川崎克氏が私財を投じ、3年の歳月をかけて往時藤堂高虎が築いた基台に木造建築により模擬復興したものである。天守の結構は、三層三重の大天守、外壁は純日本式土蔵壁とし、本体の総丈76尺(23m)基台をあわせると110尺(33.3m)建坪面積は、71坪2合5勺(276u)である。小天守は総丈31尺5寸(9.54m)、建坪面積21坪5合5勺(83.6u)で、その構造は大天守と同様手法によるものである。
  なお上野城跡一帯は国指定史跡として保存されている。
 
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