うるわしの姉弟哀B
 ようやく姉ちゃんに追いついた俺は姉ちゃんをなだめすかすために三発も殴られた。何と質屋が差し出した金は五万円なのである。確かに、オヤジは七万と言ったのに二万円もサバを読んでいたのである。
「タコオヤジ、叩き殺す」
 姉ちゃんの剣幕は相当なもので、俺の奥歯は姉ちゃんの怒りのこもったパンチでグラついてしまった。
 姉ちゃんのテンションは一気に跳ね上がるのだがなかなか収まらない。一時間後、俺とキヨシのとりなしでようやく冷静になった姉ちゃんは、とりあえず五万円が手に入ったから満足したのか、俺とキヨシを残してどこかに行ってしまった。「分け前は?」とも「どこに行くの?」とも「ピストルは置いて行って下さい」とも言えずに、俺とキヨシは姉ちゃんの後ろ姿を黙って見送るしか成す術はなかった。

 姉ちゃんの後ろ姿を見送りながら、キヨシは大きく肩で息をついでいた。その気持ちはよくわかる。俺だって倒れそうになりながらも今まで耐えてきたのだ。
「コイちゃん。俺たちの金は?」
 非難するような目でキヨシは俺を見た。弟なんだから何とかしろ、ということだろう。「分け前下さいって言ってこいよ」
 腹が立った俺は突き放すように言った。
「コイちゃんが言ってよ」
「アホか?そんな無謀な事、死んでもしとうないわい」
 キヨシも頭の中では理解できていたようでそれ以上は何も言わなかった。言っても無駄ということは本能で察知しているのだろう。何と言ってもアベックから新車のスポーツカーを掠め取った男である。根っからの善人ではない。
 俺は、今日の忌まわしい出来事に区切りの線を引くために寝ることにした。昔から俺は嫌な事があるとフテ寝することにしている。寝ている間に不思議と事態は好転するのだ。そんなジンクスにすがることにした。
 家の前に戻ってきた俺は漬物屋には不似合いなベンツが店の前に止まっているのを目撃した。
 嫌な予感がした。だからといって気分転換の就寝を取り止める気はない。本当に俺にとって本日の出来事は嫌な出来事だったのだ。 俺は知らん顔をして店の中に一歩足を踏み入れた。
「お宅のフナちゃんとコイちゃんでしたよ。コイちゃんはともかく、フナちゃんは間違えようがありませんわな。はっきりとこの目で見たんですから。ハイ、絶対に間違いはありません。ご近所のよしみで今回は無かったってことにしようと思うんですが、それにしてもムチャなお子さんですなぁ」
 質屋のタコオヤジは両親に被害を訴え出てきたのだ。警察に被害届を出さなかったのはタコオヤジも警察には言えない事情があったのだろう。
 オフクロは小さくなって謝り続けていた。俺はそのまま回れ右をして店を背にした。
「とりあえずフナちゃんに七万を渡したんですわ。それと店のあちこちが壊れたんで修理に五万程必要やて大工の棟梁に言われましたわ」
 後ろから金額を言うタコオヤジの声が聞こえてきた。さすがにタコオヤジは転んでもただは起きない男である。姉ちゃんの悪さを金儲けに変えてしまった。
 行く先が無くなってしまった俺はとりあえずキヨシの居そうなパチンコ屋に行くことにした。こうなってしまえば、キヨシと俺は戦友ということになる。まことにもって頼りない男ではあるが、被害者友の会としてはホッとする存在である。タコオヤジのことであるからキヨシの家にも何らかのインネンを付けて小金を要求することは目に見えている。いっその事、キヨシのオヤジが警察にでも訴えてもらえば姉ちゃん粛正につながるのだが、この町にそんな根性のある奴はいない。
「十万とられた」
 目まぐるしく回るパチンコ台の数字を見ながら、キヨシはつぶやいた。
「なんで?」
「質屋のオヤジが訴えるぞって、十万円持って行った」
 何という悪党だ。わずか五万の金をまたたく間に二十二万円に膨らませやがった。
 腹が立ってしかたがない。またたく間に二万円がパチンコ台に飲み込まれてしまった。 キヨシは三万近く負けている。パチンコによる被害総額も含めるとタコオヤジ関係で出て行った金は二十七万円になる。
 閉店まで粘ったが結局一度もパチンコ台の数字は揃わなかった。キヨシも同じである。姉ちゃんとの接触はツキまでも吸い取られてしまうのだ。
「どうする?」
 このまま家に帰れるか?家に入れてもらえるか?という意味の「どうする?」である。
 二人はわずかな所持金で駅前の炉端焼屋にいた。
 キヨシは見るも哀れな表情で、コップにつがれたビールを悲しそうな目で見ると何度も飲み干していた。
「凍え死にすることはないと思うけど、蚊に刺されるのは嫌だな」
 キヨシは野宿をする気である。中学生の家出よりも悲惨だ。と、いって俺にもその方法しか残されていないことは薄々感じていた。 一番の凶元は姉ちゃんである。しかし、姉ちゃんに掴まった俺たちが悪いのだ。
 この町の規則では、例えば横断歩道を手を挙げて歩いているババアに無免許飲酒の姉ちゃんが運転する車が突き当たっても、この町では姉ちゃんの前を横切ったババアが悪いということになっている。
 自然と俺たちの怒りは質屋のタコオヤジに向いていくのだった。
「ベンツの車をボコボコにしてやろうか」
 珍しくキヨシが目を座らせて吐き捨てるように言った。
「アホ、あんな安モンベンツ潰しても何にもならんわ。それにあのオヤジの事やから保険でかえって儲けるだけや」
「ほんなら店を燃やしたろか」
 今日のキヨシは過激である。
「アカンアカン、火災保険で大もうけや」
 キヨシの怒りは頂点に達した。
「ほんだらコイが何とかせい」
 完全にイッテしまっている目である。普段のキヨシなら「コイちゃん」と遠慮気味に言うのに呼び捨てである。
「ワイかてこのままで済ます気はない」
 キヨシの気持ちもよくわかる俺は、キヨシの失言をなかったことにして話を続けた。
「どうするっていうんや」
「まかせとけって。タコオヤジに一泡ふかしたるわい」
 生半可な手口ではタコオヤジの思う壺である。ことごとく儲け話に変えられてしまうだけであろう。
 それにしても、あの時姉ちゃんが持って行ったままになっているピストルがどうしても欲しい。タコオヤジを撃つ気はないが、俺の頭の中にボンヤリと浮かんできた計画にはピストルは不可欠のアイテムなのであった。

 一週間後、姉ちゃんが帰ってきた。もちろん実家に戻ってきたのではない、バリバリヤンキーの兄チャンが鼻血を出していたのをキヨシが目撃したのだ。この町でこんな過激な事を平然とやってのける人物はそうそういない。
「フナちゃんが帰ってきたみたいや」
 キヨシが俺の部屋に走り込んできた。あの一件以来、キヨシと俺は同志のような立場になっていた。
「どこに居るんや」
「そんなん分からん」
 キヨシから聞いたヤンキーの鼻血で姉ちゃんの復活は間違いないと確信した。どこかで姉ちゃんを掴まえないとピストルは戻ってこない。
「どうすんの」
 キヨシが情けない声と顔で俺の反応を伺った。
「簡単や、明日の盆踊りの会場に行ったら絶対に居る」
 姉ちゃんは昔から人が集まる場所が大好きである。祭りと聞けば押さえようとしても体が震えてくる程である。しかも盆踊りは夜ときている。魑魅魍魎、この世の悪がのさばりはびこる時間帯である。トップ・オブ・悪の姉ちゃんが姿を現さないはずはない。
 俺たちの目から見て「怖いな〜」と思うような危険な香りのする人たちが祭り会場からあたふたと逃げるように飛び出してくれば、そこに姉ちゃんはいるのである。
 ヤクザといえども同様である。いや、それ以上かもしれない。面子が潰れてはヤクザ稼業は成り立たない。彼等は姉ちゃんがいると絶対に近付いてはいかないのだ。
 三年前にヤクザ同士の抗争で、たまたま居合わせた姉ちゃんに両チームともボコボコにされたことがあった。しばしば通行人が巻ぞいになって被害を受けたニュースを耳にすることがあるが、通行人によって五人のヤクザが悲惨な目に合い、わが町の病院に運び込まれたのだ。
 五人とも鉄板入りのグッチのバックで鼻を折られていたから保険の効かない整形手術をしなければならなかった。病院から姉ちゃんにお礼の菓子箱が届けられた程である。

 翌日、俺とキヨシは盆踊り会場に近い喫茶店で『冷コー』を啜っていた。子どもや老人が楽しそうにしている時間帯は姉ちゃんの出番ではない。彼等が去り、就寝した頃に悪党どもの祭りが始まるのだ。フィナーレは姉ちゃんの登場とともにいきなりやってくる。
 金魚すくいの大きな水槽が姉ちゃんにひっくり返されて悪党どもは祭りの終りを観念するのだ。去年のテキヤは金魚すくいのアミをモナカの皮にした。それが姉ちゃんは気に入らなかったのだ。
「モナカなんぞで漁ができるかぃ」
 姉ちゃんは水槽の端を持つと一気に持ち上げた。いつもより早い幕引であった。例年なら、テキヤの兄ちゃんは姉ちゃん用の破れない金魚すくい用のアミを用意していたのであるが、去年のテキヤはその辺の事情を理解していなかったのだ。
「何さらすねん」
 目を三角にしたテキヤの兄ちゃんが姉ちゃんの胸ぐらを掴んだ時に周囲から大きな悲鳴が起こった。もちろん、テキヤの兄ちゃんの短かかった人生を哀れんでの悲鳴である。
 そもそも、姉ちゃんに小さな金魚をすくい取るなんてデリケートな芸当は無理なのである。投網を渡してもうまくいかないことは弟の俺が一番よく知っている。

「何て言うの?」
 キヨシが言った。俺にとって一番頭の痛い問題である。
「…」
 ピストル返せ、なんて言えば蹴倒されるかピストルの銃把で殴られるのがオチである。 線香花火のように夏を終えたくはない。
「やっぱ、一度は家に連れ戻さないと落ち着いた話は出来ないだろうな」
 キヨシに言ったのではなく、自分自身に言ったのである。
「それにしても、どうしてコイちゃんの姉ちゃんはあんなに怖いの」
「知るかぃ、キヨシは怖くないのかぃ」
「怖いよ、怖いに決まってるやろ。そやけど現役のヤクザまでフナちゃんにビビってるって信じられへんわ」
 もっともな意見である。俺もかねがね姉ちゃんの恐ろしさについて考えていた。
「腕力ならプロレスラーには適わないだろうな」
「電柱を引き抜いたって噂を聞いたことがある」
「それって嘘だけでしょ」
「でも、フナちゃんだったらやりそうな気になってくる」
「でも…、そこまではなぁ」
「ヤクザを三人再起不能にしたっていうことも聞いたことがある」
 三人じゃない、五人である。素人の、しかも女である姉ちゃんに入院させられる程の怪我を負わされれば、その世界では再起不能といってもいいだろう。
「警察も手が出せないって聞いたけど」
「そんな事ないだろ。悪い事をすれば当然掴まるって」
 言いながら、かつて姉ちゃんが警察に一度も掴まっていない事を思い出した。掴まっていないばかりか、事情徴収すらされた事はないはずである。
 一体、どんなシステムで姉ちゃんの行状に目を瞑っているのかはしらないが、警察も姉ちゃんはうっとうしいらしい。
 百戦錬磨の姉ちゃんだが、一度だけ喧嘩に負けて怪我をして帰って来たことがある。
 どこかの町の暴走族三十人に囲まれて鉄パイプで散々な目に合ったのだ。三十人の暴走族に喧嘩を売る事自体信じられないのだが、姉ちゃんはキッチリとオトシマエを付けた。一人ずつ探しだし、全員を病院送りにしてしまった。鉄パイプに対抗するために近所の金物屋で鉄柱を買って全員を殴り飛ばしてしまったのだ。
 暴走族は解散した。何しろ、バイクのアクセルも、車のハンドルも満足に握られない体にされてしまったのだった。
「姉ちゃんを女という範疇で考えると痛い目に合う。奴はマジンガーゼットの生まれ変わりなんや」
 キヨシは俺の心のこもった言葉に納得したようであった。

 喫茶店の時計が十一時をさしていた。良い子と良い年寄りには無縁の時間である。そろそろ姉ちゃんの時間だ。
 町の連中もその辺は察しているのか、健全なアベックは先を急ぐように祭り会場から出てきた。
「行くか」
 俺はキヨシをうながした。
「ぼくだけここで待ってるっていうのは…ダメかなぁ」
 アホ、俺かてここで居たいわい。キヨシの頭を殴り飛ばして俺は喫茶店からキヨシを引っ張り出した。一蓮托生である。この際、身内であるという条件は何のアドバンテージにもならない。
 祭り会場に行くと姉ちゃんがいた。本当に突然居たのである。まさに仁王立ちで祭り会場を睥睨していた。何か気に入らない事があったのだろう。怒りを静める、いや、増幅させている時の姉ちゃんのしぐさである。
 下手に声を掛けると矛先はこちらに向く。姉ちゃんのしたいようにさせるのが一番である。
 キヨシを視線で制して姉ちゃんの視野には入らない所でじっと様子を伺うことにした。 姉ちゃんが行動を起こした。祭り会場の真ん中にあったヤグラに向かって姉ちゃんは歩き始めた。
 どうやら、ヤグラ関連に姉ちゃんの怒りを誘発させる何かがあったらしい。
「河内音頭をテープで流すな。誰や、こんなシケた祭りをやりよった奴は」
 ヤグラを掴むとグイグイと引き始めた。どうやらヤグラを倒す気らしい。
 五分程真っ赤な顔をした姉ちゃんがヤグラを引っ張っていたが、ヤグラはビクともしなかった。怒りが頂点に達した姉ちゃんは持っていたライターでヤグラの回りを飾っていた紅白の幕に火を付けた。
「ムチャしよんなぁ」
 キヨシが呟いた。その台詞を聞いた俺の心臓が小石程に小さく縮んだ。
 もし、今の台詞が姉ちゃんの耳に届いていれば…、考えただけでも恐ろしい結末がやってくる。幸いにも姉ちゃんの耳には届かなかったようであるが、俺はこんな軽薄な男と一緒に行動を起こしているのかと思うと心細さを感じるのだった。