うるわしの姉弟哀D |
この台詞で完全にタコオヤジは道山京子の芝居を本当と信じた。愛すべき男といえる。「私ども、信用商売ですからお客様の秘密は絶対に漏らしません」 観念したように、道山京子は『森田冴』と大学ノートに書き入れた。 「もりた・さえさん、ですね」 「いえ、さいと読みます」 このやり取りを最後に、道山京子は質屋から出てきた。 車の中で待っていた俺は道山京子から十三万円を受け取ると、「姉ちゃんには今後絶対にあなたには関わらない事を約束させます」と宣言した。もちろん、俺にそんな力はないが、それを聞いた道山京子は嬉しそうな顔をした。 道山京子はそのまま家に戻ると言った。これだけ言うことをきくのだから、もっと他に要求をしてもいいかな、と瞬間スケベ心が脳裏を横切ったが、道山京子に俺の下半身をムズムズと刺激させるだけの力はなかった。 俺はそのまま道山京子を家まで送り届けるとキヨシのいるパチンコ屋に向かった。 「おい、お前の出番だよ」 ちょうどフィーバーが掛かって気を良くしているキヨシの肩を叩いて言った。 「何が?」 振り返ったキヨシの目はフィーバーのせいか優しい目をしていた。 「タコオヤジにトドメを刺すんだよ」 下皿に溜まったパチンコ球を掻き出すのに精一杯で、キヨシは俺の言うことを上の空で聞き流していた。 単細胞の男に二つの事を同時に考えるだけの余裕はない。そう判断した俺は勢い良く吐き出されるパチンコ球が止まるまで待つことにした。 「いいか、タコオヤジが車から離れたスキにピストルをコンソールボックスに入れるんだぞ。間違ってもその瞬間を見られないように素早く行動をおこせ」 換金所から少し離れた所で俺はキヨシにこれからの計画をわかりやすく説明した。 キヨシは鼻の穴を広げて『わかりました』という表情をしたが、俺は不安で仕方がなかった。 駅前の喫茶店で五時にキヨシと待ち合わせをした俺はその足で駅に向かった。約束の時間まで二時間もある。その間に、俺は更なる計画を実現するのだ。 電車に乗って半時間程揺られると大きな町に出る。大都会もどきの町に電車は入って行くのだ。 飲食店が軒を並べる通りをそのまま行くと若者が集まる一角に出る。やたらと雰囲気の悪い洋服屋が固まっているのだ。その町の片隅に公園があった。イカガワシイ気配がプンプン臭う公園である。 「クスリいりませんか」 五分もたたないうちに何人かはわからないが浅黒い顔をした背の高い外国人が片言の日本語を駆使して俺に近付いてきた。思った通りの展開に俺はほくそ笑んだ。 「クスリってなんや?」 「何でもあるね。ベリーハッピーになれるクスリね。疲れなんてイッキにフットブよ。彼女も喜ぶよ。アヒアヒ」 外国人は気持ちの悪いヨガり声をあげた。「大丈夫かいな。その辺の草に牛のウンチを混ぜたもんやないやろなぁ」 「シンヨーショーバイ」 「何が信用商売や。外人が下手な日本語を使うな」 「ノープロブレム。警察にはシークレット。お金はクスリを受け取ってからね」 俺の質問はわからなかったようで、外国人は誰かに教えられた通りの台詞を口にした。「幾らや」 話の通じない相手に苛立った俺は値段を尋ねた。 「五千円は安いよ。本物で五千円は今日だけよ。明日は一万円にアップね。次の日は二万円」 「嘘付け」 調子良く話しかける外国人をにらみ付け、俺は親指を立ててオーケーという意思表示をした。 クスリを持ってきた男はどこから見ても日本人である。金髪頭に鼻ピアスをした安っぽい男は、黙って小さな包みを俺の手に握らせた。 「クレープ屋の横にいる男にお金は渡して下さい。ずっと見てますから」 持ち逃げするな、という事なのだろう。心もち、男は凄んだ声を出した。言われた通りに俺はクレープ屋の横にいる男に、小さく折り畳んだ五千円札を渡した。 手にしたクスリが本物か偽物かなんて俺にはどうでもいいことである。少しでもタコオヤジを陥れることができそうな事なら、今の俺は金に糸目は付けないのだ。 『商品受け取りの儀』を済ませた俺は足早に公園を後にした。ここで警察に目を付けられるとヤッカイな事になる。 駅前の喫茶店で俺は新聞に包んだピストルをキヨシの前に置いた。包みの中にはもちろん買ったばかりのクスリも入れてある。新聞は駅の売店で夕刊を買った。指紋が付かないように用心して手袋もした。 「いいの、ピストルを手放しても?」 「ええんや、獅子身中の虫に天誅を加えるためやったら少々の事には目をつぶるんや」 「でも、ピストルなんて滅多に手に入らないのと違うのかなぁ」 「そんなに欲しいんやったら、日本海に面した港で外国人の漁師から買ったる。トカレフでもワルサーでも何でも買ったる」 今の俺にはピストルなんてどうでもいいのである。 キヨシも俺の剣幕に押されて渋々納得したようで、それ以上は異議を挟むことはなかった。 「こら、何すんねん」 素手で新聞の包みを掴もうとしたキヨシを叱り飛ばした。こんな所で証拠を残してどうしようというのだ。俺は手袋をキヨシにプレゼントした。 「コイちゃんて頭ええなぁ」 しきりと感心するキヨシを見て、俺は不安を隠すことができなかった。 「ええかキヨシ。あのボケナスが店を閉めて出て行きよったら俺があいつの店に電話を掛ける。あいつの事やから邪魔臭いと思ても儲け話かと思ってもう一度店の中に戻るやろ。そしてらその隙にボケナスの車のコンソールボックスにこれを入れるんや」 突然現れた神様を見るように、キヨシは目を真ん丸と開けて俺を見つめていた。キヨシに尊敬されたところで嬉しくもない俺は、奴が失敗をしないようにもう一度計画を繰り返した。 「手袋は絶対に外したらアカンぞ」 少々心元無いが、これ以上仲間を増やすことはできない。多くの完璧ともいえる犯行は仲間割れから発覚している。少しでも失敗に結び付くことは避けなければならない。 「ええな、行くでぇ」 キヨシを促し、喫茶店の外に出た。目指すはタコオヤジの悪徳質屋である。 喫茶店から質屋までの間にあった本屋に掛かっていた時計は五時を差していた。タコオヤジの店が営業を終了するまでは半時間はある。 政治家の牛歩戦術ではないが、プラプラと時間をかけてゆっくりと質屋を目指した。 どんなにがんばって時間を潰しながら歩いても十分もすれば質屋の前には辿り着く、もう少し喫茶店でいればよかったと反省した瞬間、質屋のドアを勢い良く開いて飛び出して来た人物がいた。ケツにロケットが付いているような勢いで、ただならぬ気配を全身に纏っていた。 「フナちゃん」 ロケット野郎を見て、キヨシが呆然としながらも辛うじて呟いた。 俺は目の前が真っ白になって、ロケット野郎が誰なのかはっきりと確認することはできなかった。しかし、残像として瞼にこびりついている人物は確かに姉ちゃんであった。 「何してんの?」 隣にいたキヨシに言ったわけではない。思わず独り言が出てしまったのだ。 「両手に一杯何かを持ってたよ」 確かに、パンパンに膨らんだバッグを持っていた。 こうなっては俺たちの計画なんてどうでもいい。質屋の中の様子が気になって仕方がない。俺はキヨシをその場に待たせ質屋の中に入って行った。 竜巻の仕業。それ以外には適切な表現をしようもないくらい店の中はグチャグチャになっていた。 そんな足場も無いような店の中でタコオヤジが右目の上を腫らして立ちすくんでいた。「何があったんや」 俺の声で我に戻ったオヤジは、怯えた表情をした。 「な、何でもない」 何でもないはずがない。現に店はグチャグチャ。何より姉ちゃんが猛然とダッシュして出てきたのだ。キャンプ場に熊が出没した以上のインパクトである。 「警察呼んだろか」 「あかんあかん、警察は絶対にアカン」 狡賢いはずのオヤジの表情からは毒気が完全に抜けていた。何かに怯えていた。 タコオヤジは何かを隠していた。そうでなきゃ、姉ちゃんに襲撃されて「何もない」なんてことはないはずである。 タコオヤジが何も言わない以上、この店に居る必要はない。俺は今日の計画を中止にするしかないと諦めて店を出た。 「コイちゃん、絶対にこの事は誰にも言わんといてや、頼んだでぇ」 姉ちゃんの勢いで蝶番いが外れそうになっているドアを押して出て行こうとする俺の背中に向かってタコオヤジは懇願するように言った。 「そんな事しるか、屁こいて寝とけ、ボケ」 外に出た俺は待っているはずのキヨシの姿を探した。 「キヨシ。どこや、どこに行ったんや」 道行く人が俺の大声に驚いて振り向いた。「何見とんじゃボケ、見せもんちゃうんや。ちょろちょろしとったらいてまうぞ」 突然の出来事に俺の頭の中はパニックになっていた。予測不可能な事態に、取り乱すなというほうが無理である。 それから三日間、キヨシの姿はどこを探しても見つけることはできなかった。まさに神隠しに合ったようである。二日目の深夜にキヨシの母親が俺の家にキヨシがどこにいるか知らないか聞きに来たが、俺もキヨシを探しているのだ。知っているはずもなかった。 三日目、フラフラと歩いているキヨシを俺のオヤジが目撃した。 「キヨシ君を見たよ。何や放心状態で歩いとったわ。家にも言うといたった方がええんと違うか」 キヨシの母親が訪ねて来た事もあってオヤジはキヨシの家にその事を伝えに行けと俺に言った。 「どこで見つけたんや」 「駅前や」 俺は一目散に駅を目指した。キヨシには聞きたい事が一杯あった。いや、確認したい事が山程あると言った方が正確である。 駅前に行ってみたがキヨシの姿はどこにもなかった。公衆便所の中も見てまわったがホームレスのオッサンが一人いただけである。 キヨシも生き物だからその場にじっとしているなんて事はないのだろう。ともかく俺はキヨシの家に行ってみる事にした。 いつものように客のいない雑貨屋に一歩足を踏み入れた俺は異様な雰囲気に全身を包まれた。この雰囲気が嫌で俺はキヨシの家を敬遠しているのだ。 俺がもの心付いた時からキヨシの店は何一つ変わってない。お世辞にも近代的とは言えない我が商店街の真ん中にキヨシの店はあった。その中でスバ抜けてキヨシの家はビンテージものであった。この時代、店の床が土のままというのは異様である。そのせいか、いつも『ジト〜』と湿気が充満していて妖怪か幽霊が潜んでいそうである。 大村昆の看板がピカピカの状態で残っているのも怪しいといえば十分怪しい。ノスタルジックなんて言葉は、要するに活気のない寂れた状況を言うのだと、この店に来ると思えてくる。よくもこんな店で一家が生活をしていけるものだと感心させられる。 人の気配に気付いたのか、奥からキヨシの母親が出てきた。 「おばちゃん、キヨシは」 キヨシとまったく同じ顔である。いや、正確にはキヨシが母親とそっくりなのである。父親は滅多に表に顔を出さないが、これまたキヨシに似ている。俺はキヨシの両親は兄弟で結婚したのだと信じて疑わない。 「コイちゃんにも心配かけたなぁ、今朝、フラッと帰ってきたわ。そやけど何を聞いても何も言わへんのや。何や別人みたいになってしもたわ」 俺は考えていた最悪の事態に間違いはないと確信した。 「ちょっとキヨシ君に合わせてくれますか」「そうか済まんなぁ、コイちゃんの顔を見たらキヨシも元に戻ると思うわ」 頭が少し弱いキヨシは、使いっパシリにしている俺の事を唯一の友達と勘違いしているようで、母親に対して俺の事を悪く言うことはない。だから俺はキヨシの家において絶大なる信用を勝ち得ていた。 母親から許可を貰った俺はキヨシの部屋に向かった。今日のように玄関からキヨシの部屋に行く事は滅多に無い。いつもは窓から身を滑らせて入って行くのだ。 「おい、どないや」 部屋の前で俺は中にいるキヨシに声を掛けた。中からは何の反応もなかった。 「居るんやろ。入るでぇ」 返事はなかったが、キヨシの部屋に足を踏み入れた。 締め切った部屋の中には澱んだ空気が垂れこめていた。そんな重苦しい雰囲気の中でキヨシは俺に背を向けて座っていた。背中からは一切の生気を感じることはできなかった。「どこに行っとったんや」 キヨシの肩がビクッと震えた。そんなキヨシの様子を見て、ますます俺は確信の度数を高めるのだった。 「やっぱり姉ちゃんか」 キヨシが崩れた。嗚咽の声が部屋に響き渡った。 タコオヤジの質屋に入って行った俺を、通りを越えた所で待っていたキヨシは、突然猛獣のような力で襟首を掴まれ路地裏に連れ込まれた。 気味の悪い笑顔を見せる姉ちゃんに見つめられ、キヨシは一切の抵抗は無駄であることを観念した。 姉ちゃんの後を付いて行くキヨシにその場から逃げるなんて気は起らなかった。仮に逃げる事を選んだとしても、姉ちゃんの背中にも目があるようで、その呪縛を解き放って逃亡に成功することは脱獄不可能な網走刑務所から逃げる以上に困難なことであった。 それでも、キヨシは一パーセントの望みを諦めはしなかった。いつかは必ずスキができることを信じていた。 パチンコ屋の前を通った時、キヨシの本能が「チャンスは今だ」とキヨシに掛け声をかけた。パチンコ屋の中に逃げ込めば、両手に荷物を持った姉ちゃんは狭い通路を自由自在に走り抜ける事は不可能である。 キヨシが決心をするほんの一瞬、姉ちゃんは後ろを振り返った。 「一つ持てや」 左手に持っていた荷物を投げるようにしてキヨシに手渡した。 慌てて荷物を受け取ったキヨシは両手が抜ける程の荷物の重さに思わず両足を踏ん張った。 |