うるわしの姉弟哀E
 奴隷をつなぎ止めるため、その足に鉄球付きの足輪をはめたようなものである。完全に体の自由は奪われてしまった。
 よろけながら後を付いて行くキヨシ。姉ちゃんとの差はどんどん開いていく。が、キヨシの心のどこを探しても逃亡をする勇気は残ってはいなかった。

 片手で持つなんて芸当は無理である。両手で持つことでようやく荷物は地上から離れ運搬が可能になる。そんな苦行を一時間は続けさせられた。半時間程前は滴り落ちるように流れ落ちた汗は、一滴も出なくなっていた。体中の水分が全部出てしまったかのようであった。乾燥した汗は白い塩となって顔面に付着していた。自分ではわからないが顔色は顔に付いた塩と同じくらい白く蝋のようになっているのだろう。
 これ以上は無理、という限界の一歩手前で前を行く姉ちゃんは荷物を下ろした。さすがの姉ちゃんも額に薄っすらと汗を浮かべていた。どうやってこんな場所を見つけ出したのか、そこは人影のまったくない駐車場であった。
 タコオヤジの質屋からどれだけの物品を奪い取ったのかは知らないが、相当な量の商品を盗み取った事は間違いない。
 ようやく姉ちゃんに追いついたキヨシは荷物をその場に置くと崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。
「フナさん。この先…」
 この後はどうするんですか、という事を聞こうとしたキヨシであったが、姉ちゃんに対して『フナ』という名前を出してしまったから目玉が飛び出る程のゲンコツを頭に受けてしまった。
 不思議なもので体中の水分は一滴も残っていないと思っていたのに涙が出てきた。

 幌付きの軽トラックが二人のいる駐車場にゆっくりとしたスピードで入ってきた。いかにもイカガワシイ雰囲気のする軽トラックである。黒いフィルムを張った軽トラックなんて滅多に見掛ける事はない。
「遅い」
 運転席に向かって姉ちゃんはスルドイ声を出した。もし、それがキヨシに言ったものならキヨシは即座にオシッコを漏らしていただろう。それだけ待たされた事に苛立った姉ちゃんの一声であった。
「渋滞してたもんで」
 運転席の黒いフィルムを張った窓がスルスルと下り、中からサングラスを掛けた男が言い訳をした。
「何でもええ、早よせぃ」
 姉ちゃんの声に促されるように、サングラスの男は運転席から下りるとキヨシと姉ちゃんが運んで来た荷物に近付いた。
 中からは想像したように夥しい量の商品が出てきた。中に木彫りの仏像も入っていた。「早よせぃ」
 またもやお姉ちゃんは苛立ちをそのまま表現する台詞を吐いた。
 男は持っていた電卓を姉ちゃんに見せた。チラッと電卓の液晶に視線を送った姉ちゃんは男から電卓を奪い取って勝手に数字を打った。              
「そりゃ殺生や。無茶言うたらアカンわ」
 男は姉ちゃんから電卓を奪うと数字を押し直した。
「ここはスーパーとはちゃう。8や9はいらん。スッキリさせたりぃや」
 ドスの利いた声に、男は渋々納得したようだった。ただしキヨシはその金額がいくらなのかは知らない。
「おい、サービスしたり」
 姉ちゃんがキヨシを振り返って言った。一瞬、何の事を言われているのかキヨシはわからなかった。
「ボケ、荷物を荷台に乗せたれって言うてんのや」
 またもやキヨシは全身に力を込め、ヨロつきながら荷物を持ち上げた。自分が持って来た方の荷物は荷台に乗せることができたが、姉ちゃんが持っていた方の荷物はビクともしなかった。まるで根が生えて駐車場のアスファルトに生えているかのようだった。
「上がらへん」
 弱音を吐いたキヨシをギロッとスルドイ視線でにらみ付け、姉ちゃんは片手でその荷物を軽々と持ち上げた。
 サングラスの男はそんな姉ちゃんを見て驚きの声を上げた。
「フヘー。ホンマに凄いなぁ。素人にしとくのは勿体ないは。どや、ウチの『杯』受けへんか、社長にはワシから口をきいたるぞ」
「アホ、ヤクザみたいなしょうもないモンに誰がなるか。ナンボ金積まれても嫌や」
 キヨシの予想通り、やっぱり相手はヤクザだったのだ。噂では聞いていたが、本当にヤクザをアホにしている場面に遭遇して、キヨシはますます姉ちゃんの凄さを思い知るのだった。
 サングラスの男改めヤクザは姉ちゃんに分厚い封筒を手渡した。
「大事に遣いや」
「やかぁしぃ、お前らに説教される筋合いは無いわ」
 ヤクザはキヨシの方を見て、「仕方ないなぁ」というようにニヤリと笑った。

 駐車場からヤクザの軽トラックが出て行っても、キヨシは姉ちゃんから解放されなかった。
「行くでぇ」
 たった一言でキヨシは三日間姉ちゃんに引き摺りまわされる羽目になったのだ。
 国道沿いにあった中古車屋に行くと、『直ぐに乗れます』と書いてある車を現金で買った。
 中古車屋のオヤジは免許所を見せろと言ったらしいが、「家の中に飾っとくんや、免許なんていらんやろ」という姉ちゃんの無茶に押し切られた。ヤクザから貰った封筒の中から、無造作に一万円札を抜き出して姉ちゃんは中古車屋のオヤジに手渡した。封筒の厚みに変化はなかった。
 キヨシが運転をし、そのまま温泉街に乗り込んだ二人は二日間豪遊を繰り返した。もちろん、湯水の如くお金を使ったのは姉ちゃん一人だけで、キヨシはその間ずっと旅館の一室で監禁状態を申し付けられていた。
 夜中に帰ってくる姉ちゃんはゴキゲンで、キヨシはそのまま犯されるのではないかとヒヤヒヤしていたらしい。実の弟である俺でもその状況を考えると鳥肌が立ってくる。涙無くしては聞くことができない話であった。
 結局、姉ちゃんはその温泉街で催されていたトバク場に入り浸っていたらしい。初日はツキが回ってきて三百万円近く勝ったらしいが、二日目には案の定、全てを失ってしまった。
 いつまでたっても戻ってこない姉ちゃんを待つうちに、キヨシは見捨てられた事を悟った。溜まった宿代は三日前に買った車をそのまま渡すことで許してもらった。
 ヒッチハイクをしながら、ようやく戻って来たというわけらしい。
 さて、今回の計画の失敗で俺は一つの事を決意した。結果的にタコオヤジを成敗してくれたのは姉ちゃんだが、姉ちゃんの存在は俺にとっては迷惑以外の何者でもない。考えたくはないが、この先どんな迷惑が縁者である俺に掛かってくるかもしれない。両親が健在である時はいいが、両親が死ねば俺が一番の近親者になってしまう。日に日に姉ちゃんが引き起こす事件がエスカレートしている現状を考えると、その被害者は中途半端な被害では済まないだろう。その弁償や保証なんて俺には絶対にできない。そんな事に巻き込まれれば、俺の人生はメチャクチャになってしまう。
 幸い手元には実弾入りのピストルが残っている。これは神様が俺にくれたプレゼントである。これを有効に使わない手はない。キヨシの報告からもはっきりしているように、姉ちゃんはヤクザとの関係がある。しかもヤクザを手玉に取るなどど、先様の機嫌を大いに損ねる付き合い方である。
 ヤクザにピストルは付き物である。彼等にピストルで撃たれたとしても何の不思議もない。どうせキヨシが手に入れたピストルも誰かを撃ってヤバクなって捨てたモノである可能性が高い。俺とは結び付きようもない。これで姉ちゃんを撃っても俺の犯行であるなんて警察も思い付かないだろう。
 完璧だ。
 いや、一つだけ穴があった。キヨシだ。奴は俺がピストルを持っている事を知っているのだ。奴にとって俺は兄貴分ではあるが、見方を変えるとキヨシを苛めているだけのイジメっ子である。そのうちにキヨシも賢くなって気付く日がくるだろう。その時、俺の存在が邪魔になり警察にチクルなんて簡単に考えられる。
 三日ぶりに奇跡の生還を果たして無邪気に喜んでいるキヨシを見て、俺は考え込んでしまった。
「一体いくら手に入れたんやろ。結構厚い封筒やったから二百万円くらいかなぁ」
 俺と目が合った途端にキヨシはヤクザから手に入れた現金の話を喋り始めた。
「キヨシ、どうして姉ちゃんはタコオヤジの店を襲撃したんやろ」
「そりゃ腹が立っていたからだろ」
「そんだけかなぁ。それにしちゃ手回しが良かったとは思わへんか」
「手回し?」
「盗んだ物を直ぐに売りさばくやなんて前もって計画しとかな無理やろ」
 キヨシは俺の話をじっと聞き始めた。催眠商法に引っ掛かった客のようである。こうなれば俺のペースである。
「仏像も持ってたって言うたよなぁ」
 キヨシはうなづいた。
「あの仏像があそこにある事を知ってるのは何人もいやへん。価値も含めてや」
「道山京子」
 キヨシは大発見をしたように喜んだ。
「そうだよなぁ、それしか考えられへんな」 俺がキヨシの大発見を肯定したので奴は嬉しそうに瞳を輝かせた。
「でもなぁキヨシ。道山京子なんて姉ちゃんにとっては大勢いるパシリの一人やでぇ。そんな奴の情報までタイムリーに入るやなんて恐ろしいとは思わへんかぁ。忘れずに付けねらってたんや。必要な人間は絶対に離さへんのや、あの人は」
 姉ちゃんの恐ろしさが身に染みてわかっているだけにキヨシの表情が曇った。
「昔から姉ちゃんは一度でも自分にとって利益に繋がると思った人間は絶対に手放さへんのや。一生付きまとわれるんや」
 キヨシの顔が歪んだ。俺の話術に完全にはまったのだ。
「今回の事でキヨシも気を付けやんと…」
「えっ、気を付けないとどうなるの」
 そんなことわかっているじゃないか、というように、俺はキヨシの瞳をじいっと見つめた。
「どうすればええんやろ」
 完全にキヨシは泣き顔になっていた。
 俺は腕を組んで考え込んだ。もちろんポーズである。
「一生パシリになるって決まったわけやないからなぁ」
 こんな程度でキヨシの不安が拭い去れるわけはない。かえって増えるだけである。これも計算である。
「お前、何でも姉ちゃんの言う事をきいたみたいやからなぁ、でも間違っても姉ちゃんを妊娠なんてさせんといてや。キヨシを兄ちゃんなんて呼びとうはないわ」
 キヨシの恐怖は頂点に達した。目尻が下がり口がダラシなく開いている。まさに放心状態というやつだ。
「どうしたらいいんだよぅ」
 まさにキヨシはパニック状態である。
「どうしたらって言われてもなぁ。死ぬまで利用されるんとちゃうかなぁ」
 特に『死ぬまで』という箇所を強調した。「フナちゃんが死ねば…」
 キヨシの瞳は中空をさ迷っていた。
「でも、元気みたいやから病気でコロッとは死なんわなぁ」
「元気」
 先程からキヨシは俺の台詞を繰り返しているだけである。
「都合よく自分から死んでくれる人とはちゃうわなぁ、殺すしかないんとちゃうか」
「殺す!」
「例えばの話や。でも、その前に返り討ちに合うんとちゃうか。姉ちゃんを殺すんやったらミサイルとかピストルとか離れた所から攻撃できるもんやないと無理やろな」
「ミサイル・ピストル?」
 ようやく俺のサジェスチョンが伝わったようだ。
「そや、このピストル必要なくなったで返しておくわ。まさか、俺たちがピストルを持ってるやなんて誰も知らんことやろなぁ。偶然拾っただけやもんなぁ」
 キヨシの目がランチュウのように泳いでいた。
「コイちゃん」
「後ろからやったら絶対や」
 阿吽の呼吸というやつである。
「ケネディでも頭一撃で即死やったんや」
 ここまで言うと殺人教唆というものになるかもしれないが、そんな事はかまっちゃいられない。キヨシしかいないのだ。
「ケネ…、誰やそれ」
「アメリカの偉いさんや。ピストルで殺されはったんや。やった人間はいまだに見つからへんらしい」
 哀れな小羊キヨシ君はじっと俺の瞳を見つめた。
「俺たちは血を分けた肉親よりも強い絆で結ばれているんや」
 キヨシにとって、俺は教祖様である。奴は『コイちゃん教』の信者なのだ。

 キヨシの雰囲気が変わった。つまり一言でいうとハードボイルドになったのだ。ノホホンとしていたキヨシがキリッと力強い男に生まれ変わった。ストイックな雰囲気がキヨシの周辺から離れることはなかった。まさにスナイパーのようである。思い詰めた精神錯乱者というように表現しても間違いではないがキヨシは近寄りがたい雰囲気をオーラのように放出していた。
 大開放・大放出。まさにパチンコ屋の看板そのままであった。
「コイちゃん。フナちゃんの居場所はわかんないかなぁ」
 キヨシと話をして二日程たったある日、キヨシは我が家を訪れ俺に質問をした。
「オカンが言うには三日後が姉ちゃんの誕生日らしいから金の無心に来るだろうって言うてたわ」
 これは本当の事である。事件から遠ざかるためにも俺は善良なる人間を演じなければならない。この場において策略はミスを招く。後はキヨシに任せておけばいいだけなので俺は有りのままを話した。
「三日後」
 キヨシは自分自身に言い聞かせるように呟くと我が家を後にした。それにしても、ピストルをいつも腹に入れているのか右手は腹の中に突っ込んだままである。あんな雰囲気であんな姿勢だと誰でもおかしいと思うはずである。 
 俺はキヨシの後ろ姿に「大丈夫かぃ?」と心の中で声を掛けた。