そして、彼女も節分の日に僕の友人からそのことを聞き、僕の元から去って行った。酔っぱらった彼女から「鬼は外だもんね」と、泣き声で電話があったのが、彼女の最後の台詞だった。 僕は全てを無くしてしまった。そのことについて身勝手なんだろうけど、反省や後悔はなかった。 それから暫くは全てのことを忘れて仕事に熱中していた。いや、実際は全てのことを忘れるためにそんな振りをしていただけかもしれない。仕事に対する熱中も誰もいない家に帰るのが怖かっただけなのかもしれない。 好きではなかったゴルフのハンデもどんどん減っていった。休日も何かしていないと心の均整が保てなかったのだ。 そんな休日を何回か過ごしたある日、佐帆から一本の電話が入った。 「四月から由佳は小学校に入学します。由紀は幼稚園の年少組に入園します。あなたに伝える必要は無いと思ったけれど、二人の保護者には、残念ながら一応あなたも戸籍上は今のところは含まれていますから…」 どこの小学校?どこの幼稚園?そう聞く前に電話は一方的に切れていた。『ツー』という受話器から聞こえてくる乾燥した機械音を聞きながら、しばらく二人の娘のことに思いをめぐらせていた。 次に佐帆から連絡が入ったのは梅雨が明けようとしている頃だった。 「由佳が夏休みにあなたと会いたいと言っているの、それを聞いて由紀も同じように私に毎日おねだりするの。私はノーサンキューなんだけど、なんとかならないかと思って、無理だったらいいわ、二人には私からそのように伝えるから」 最初から佐帆は『ノー』という返事を予想しているようだった。とりあえず電話を掛けたけれど、直ぐにでも電話を切りたそうな感じが受話器から伝わってきた。 「何とかする。僕も二人に会いたいんだ」 電話を切られる前に急いで言ったのだけれど、佐帆は僕の返事が彼女にとって意外な返事だったのか、暫くは何も言わなかった。 「すぐには何処で、何を、なんて思い付かないけれど、二三日したらもう一度電話をしてくれ、必ずだよ」 それだけ僕が言うと、佐帆は曖昧な返事をして電話を切った。 無くしたものがどれだけ大切なものだったのか、過ぎた時間がどれだけ重たいものなのか僕は痛切に感じていた。思い出すまいとしていた子ども達の笑顔がその瞬間から僕の脳裏にへばりついたまま離れなかった。四六時中、佐帆や子ども達が僕の意識の回りを人工衛星のように回っていた。 三日後に佐帆から連絡があった時、僕が指定した場所は、一年前に僕達家族が行った僕達家族の最高に楽しかった思い出の場所。僕が半年ぶりに妻に会うために相応しい場所はそこしかなかった。 炎天下の下、Tシャツを湿らせ、腕が汗で光った何人もの人が列をつくっていた。どの人もフラストレーションが溜まっているのに違いないのに決まったように全員が笑顔でじっと列が進むのを待っていた。でも、僕はむせ返るような暑さの中で幸せ一杯の列に近寄ることも出来なくて、目が眩むような熱気と幸せから逃れるために僕は列から遠ざかり、日陰を探し続けていた。人々の最高に幸せそうな表情を、心の芯から無表情な僕は、それを眺めて時間を潰していた。 さすがの夏真っ盛りも太陽が大きく傾くと心地好い風が吹き始めた。 僕は吹き始めた風に押されるように佐帆との待ち合わせのホテル、つまり一年前に僕達の幸せを置いてきたホテルに戻ることにした。 夕闇が辺りを覆うほんの少し前の僕の一番好きな時間に僕はゲートに向かって歩き始めた。こんな時間に帰り始める人はさすがに少なく、夜からのパレードを見るために入場して来た人の流れが僕をホテルに戻すまいとしているように僕を何度も流れの中に押し戻したのだった。 やっとのことでホテルに戻るシャトルバスの乗り場に着いた僕は、随分とタバコを吸っていなかったことに気付いて、ポケットからクシャクシャになったタバコのパッケージを引っ張り出して、火を着けた。 バス乗り場は拍子抜けするくらい空いていた。 一年前のバス乗り場は、疲れ切った顔と、まだまだ興奮が続いている顔がひしめきあっていた、ちょっとグッタリする場所だった。 最後までパレードを見た娘達はまだまだ興奮が続いていたようだったけれど、睡魔との戦いが同時に始まったらしくて、少しおとなしくなり初めていた。 そして、この日は久しぶりに僕が汗まみれの二人の娘をお風呂に入れた。 窮屈なお風呂で、寝むた目の娘の体を洗ってシャンプーまでするのは至難の技で、お風呂から出た僕は相当に疲れていた。 風呂から出た娘達はパジャマに着替えると僕達二人に「おやすみなさい」も言わないでそのままベッドで眠り込んでしまった。 突然二人の娘から解放された僕は、思い出したように喉の渇きを覚え始めた。 湯上がりの乾いた喉に僕はビールを流し込みたくなっていた。僕と娘達の後に続いてお風呂に入った佐帆が出て来ると、彼女も娘達と一緒で疲れがピークに達しているのか直ぐにでもベッドに潜り込みたそうな様子を見せたのだったけれど、僕は無理に佐帆を誘ってホテルのラウンジに降りて行った。 ロビーの横には軽食を専門に扱う店しかなかった。もっと探せば目的のラウンジもあったのだろうけれど、そんな余裕は僕には残っていなかった。 何としてもビールが飲みたかったということと、結婚して始めての二人だけの時間が楽しめて、さらに充実した一日の旅行の余韻が楽しめることが可能な場所であれば、どこでもかまわなかった。 テーブルに着いた僕達に注文を取りに来たウェイターは、これがラストオーダーであることを冷たく告げた。 しかたなくその店を出ようとする僕に佐帆は、「あなたの好きな生ビールがあるわよ、一度に何杯も頼めばいいのよ」と嬉しそうに、そして少しだけ寝むたげな笑顔で言った。 |