去年の笑顔C
 テーブルに届けられた三杯の生ビールを一つは僕、一つは佐帆、残る一つはそのままテーブルの真ん中に置いて僕達は乾杯した。

 一体何に乾杯したんだろう。今となっては思い出せない。覚えていることは、結局三杯とも僕がほとんど飲み干したということだけだった。疲れて乾いた体に確実に染み込むように入って行った生ビールは僕のテンションを静かに落ち着かせた。
 それから僕達は隣のコーヒーショップに入って行った。
 ホテルに泊まることや、二人切りでお酒を飲みに行くこと、二人でコーヒーショップに入るなんてことは結婚してからほとんどなかったように思う。
 ウェイターに案内された佐帆はテーブルに着くと、本当に幸せそうな顔をしてカフェオーレを注文した。
 コーヒーとミルクが別々の容器に入っており、自分で好きなように入れて飲むそのコーヒーショップのカフェオーレは量が多くて、一人では飲み切れない、と佐帆は嬉しそうに僕に訴えた。
 大きな窓の向こうには悲しくて真っ暗な東京湾が広がっていた。

 シャワーを浴びた僕は簡単に着替えを済ませるとコーヒーショップに行った。一年前に僕と佐帆が座ったテーブルには誰も座っていなかった。
「お一人ですか」
 ウェイターが入り口に立って窓を見ている僕に話しかけて来た。
「いや、後で…、多分、もう少しすれば」
 うなづいたウェイターは僕を座席に案内するために僕の前に立った。
「もし迷惑じゃなければ、あの席を…」
 僕が一年前に座った席を指さすと、ウェイターは僕のリクエスト通りに僕をその席に案内してくれた。
 もう一度水と灰皿を持ってきたウェイターに僕はバドワイザーを頼んだ。こんな時でもビールなんか飲んでいる僕を見て、多分、佐帆は『不謹慎よっ』、て顔をするかなと思ったけれども、灼熱の太陽の下、目的もなくさまよい歩いたせいで僕の体から失われた水分や、幸せそうな人々を見て乾燥し切った感覚は、冷えたビールでなければ潤すことは出来そうになかった。
 二本目のバドワイザーのスクリューキャップを捻った時に佐帆が現れた。会うのは半年ぶりになる。ひよっとして二人の娘もこの店に連れて来ているのではないかと佐帆の後ろを見たけれど、かわいくて愛くるしかった二つの笑顔を見つけることはできなかった。
「あなたらしいわね。やっぱり一年前と同じテーブルにするなんて」
 半年ぶりの挨拶の前に皮肉ともとれる言葉が佐帆の口から飛び出してきた。
「ちょうどこの席が空いてたんだ。この席は嫌なのかい」
 僕の言い訳に対して佐帆は何も答えなかった。
「隣の席に移ろうか」
「別に、大して差はないわね」
 自分に言い聞かせるように佐帆は言った。「由佳と由紀は…」
「部屋にいるわ」
「二人っきりで大丈夫なのかい」
「ええ、二人とも大きくなったわ、可愛そうな母親を支えて逞しくもなってきたし、それに昼間ミッキーに会えて興奮していたから眠むそうにしていたの、そのうち眠るでしょ」 少しだけホッとした。ひょっとして誰かが母親のいない間に部屋で二人を見ているとしたら…。
「僕も昼間は同じ場所に行ってたんだ」
「へー、そんな嫌味なアベックには出会わなかったわ。よかった、そんな幸せそうな二人を娘達に見せなくて」
「違うよ、一人でだよ」
「へー、友亮さんにそんな趣味があったなんて知らなかったわ」
 ウェイターが注文を取りに来た。
「カフェオーレにするわ」
 独り言のように佐帆がつぶやいた。ウェイターは佐帆の独り言を奥の厨房に伝えるために僕達二人の席を離れて行った。
 やがて、コーヒーと牛乳が別々の容器に入れられたカフェオーレが佐帆の前に並べられた。
「別れたんですってね」
 突然だったけれど、それはとても自然な会話のように佐帆の口から出てきた。
「ああ、君が出てから少しして」
「じゃあ、今はお一人なのかしら、それとも次の人がいるのかしら」
「そんなに僕を困らせないでくれ」
 これ以上こんな会話を続けたくなくて僕は吐き捨てるように言った。
「困る?、そう、これは困る質問なのね」
 佐帆のきつい視線が僕に注がれた。
 何か言い返したそうになった佐帆だったけれど、その言葉を自分の中に無理やり飲み込んだようだった。
 二人の間に沈黙が続いた。コーヒーショップは僕達二人だけになっていた。
「見てみたい?」
 沈黙が重苦しくなり、耐えられなくなったのは佐帆の方だった。
「何を?」