去年の笑顔D
「由佳と由紀を」
「ああ、何て言えばいいんだろう。無性に二人に会いたくなる時がある。二人を抱き締めたくなるんだ」
 佐帆の瞳が少し変わった。漆黒の東京湾に近い色が、言い換えるとすれば憎悪に満ちた女の瞳がフッとやさしくなった。
 僕はその理由が知りたくて瞳が差す方向を振り向いた。
 そこには、僕達の雰囲気から近寄ることができなくてオドオドしている二人の娘の姿があった。二人は揃いの水玉模様の服を着せられて、靴もお揃いの赤い靴を履いていた。
「どうしたの?、寝むれなかったの?」
 可愛そうな二人の娘に対して佐帆の表情は母親のやさしい顔になっていた。
「明日はパパと一緒にいられるんだと思うと眠れなかったの。それでね、由紀と一緒にママを探していたらここにいたの」
「そう、いいわよ、ここに来なさい」 
 佐帆の左に由佳が座り、佐帆の膝に由紀が乗った。二人の子どもは僕から見ても僕を前にして身を堅くしていることがわかった。どうしていいのかわからなかったのだと思う。二人は目の前にいる僕に対して俯きかげんで視線を僕に向けることはしなかった。
「何か飲むかい」
 僕が二人に声を掛けた。
「いいの、もう遅いから」
 由佳が答えた。
「由紀ちゃんは?、リンゴジュースでも頼のもうか」
 以前のやさしい父親だった頃の自分を思い出して、優しく笑顔で由紀に尋ねた。
「由紀ちゃんもいいの、だっていい子にしないとパパと遊べないんだもん。悪い子になったらパパが消えちゃうんだもん」
 それだけを必死に、そしてやっとの思いで言うと由紀は声をあげて泣き出した。由佳も泣くのを必死に堪えていたのだけれど、由紀の泣き声を聞いたとたんに我慢できなくなったのか泣き出してしまった。
「パパ、何処にも行かないで、由佳も由紀もいい子にするから」
 僕は僕がしてきたことの罪深さに耐え切れなくなってきた。膝がガクガクと震えてくるのを止めることが出来なかった。
 子どもの泣き声に驚いたウェイターが近寄ってきた。
「御免なさいリンゴジュース二つ」
 佐帆が何事もなかったかのようにウェイターに注文した。
「ママ、ジュース飲んでもいいの。こんな時間なのにだよ。パパ消えちゃわない」
 心配そうに二人の娘は母親の顔をじっと見つめた。そして僕も二人の娘と同じように佐帆を見つめた。
 僕達四人の間に、共通する沈黙の時間が流れていた。
 少しだけ肩の力が抜けたように見えた佐帆は、諦めたように、そして、少しだけ困った顔をして、こう言った。
「大丈夫よ、あなた達の顔を見たら、今度はパパは消えたりなんかしないと思うわ。それにママも今度はパパから離れていかないわ」 その夜、由佳と由紀は僕がリザーブしたシングルの部屋に寝た。狭いベットに僕を挟むようにして二人の娘が寝た。眠ってからも二人は僕から少しも離れず反対にグイグイと体を寄せ付けてきた。

 明日も暑くなりそうだ、一度消えた思い出を、もう一度作り直すためにも早く眠ってしまわなければならない。