伊賀の国・柘植郷は、京都に都が遷った約1200年前の延暦13年(794年)から仁和2年(886年)までの92年間、古代・東海道筋の交通の要衝として、当時の国家的大事業と言える斎王群行の表舞台の役割を果たしてきました。
 斎王(さいおう)とは、国の安全と平和を祈願するため、京の都から伊勢神宮へ派遣され、天皇の名代として神に仕えた人のことです。そして、斎王には、皇女や皇族の未婚の女性から卜定(ぼくじょう)という占いによって選ばれました。斎王に選ばれると、都で2年間精進潔斎し、3年目にいよいよ5泊6日の日程で伊勢の斎宮に向かいます。
 旅立ちの日、斎王一行は、昼頃に潔斎場所の野宮(ののみや)を発ち、禊を終えて平安京に戻ります。そして、天皇の待つ大極殿に入ります。この時、天皇は斎王の額に櫛を挿します。「別れのお櫛」と呼ばれる儀式です。そして、「都のかたにおもむきたまふな」と声を掛けます。都に帰って来るなとも、都を振りか返らずに真っ直ぐに行け、とも理解できる別れの言葉です。
 見送りの勅使以下300人を超える斎王の一行は、真夜中の京の都を離れ、遠い伊勢に向かって文字通り群になって旅立ちます。「斎王群行」と呼ばれる古代の大イベントです。
 斎王が道中で泊まられる所を「頓宮(とんぐう)」と呼び、群行決定の都度、仮宮として設けられました。
 都を出た斎王群行は、二条大橋から現在の岡崎公園を経て、深夜の山科を越えます。そして、近江の国へ入り、琵琶湖を左手に瀬田川を渡って「勢多(せた)の頓宮」に一夜目の宿泊をします。二日目は、東海道を野洲川に沿って東に進み、「甲賀(こうか)の頓宮」で二夜目の宿を取られます。そして、三日目は、杣川と呼ばれる野洲川上流に沿って進み、伊賀の国・柘植に入ります。進入路は鞆田(ともだ)側からなのか、倉歴(くらふ)側からなのかは不明です。
 この斎王群行路が当時の中柘植を通り、その頓宮として「斎宮芝(さいかしば)」がありました。この地は、柘植川と倉部川との合流点にあり、『三国地誌』にも斎宮芝中柘植とあります。サイカはサイクウの訛り、シバは心霊の座所の意と言われています。
 伊賀頓宮が造営された平安初期の92年間に、任命された斎王は11名です。しかし、1名は群行せず、もう1名は、新しく開通した鈴鹿峠道を通ったので、伊賀頓宮へ宿泊されたのは9名の斎王でした。

  【配役の解説】

斎王(さいおう)
 天皇の御名代で伊勢の斎宮御所へ行かれた未婚の皇女
 又は女王

女別当(おんなべっとう)
 斎王群行の時、女官の総括をする

内侍(ないし)
 群行では斎王に常待して世話をする女官

命婦(みょうぶ)
 斎王の身の回りの仕事をする女官

釆女(うねめ)
 地方の豪族の娘から選ばれ、食事に関する仕事をする
 女官

童女(わらわめ)
 皇族、貴族の息女で、御所の作法見習い

官人(かんにん)
 京の行政に携わり、群行に随行する

火長(かちょう)
 群行で多くの警護人たちの指揮をする軍団の長

白丁(はくちょう)
 女官たちの誘導、警護の役目を持ち、朱傘を持ったりして
 群行に随行する

輿丁(よちょう)
 風輦を担ぐ人達で、天皇、斎王の身近にいるため、衣装
 も立派で品行の良い人が選ばれる