徳永寺の縁起
本 堂

旧本堂は、江戸時代後期第9世宣誉上人代に建立されたものであるが
老朽化甚だしく昭和
5(1932)年7月10日起工式を執り行い着工以来
1年8
ヶ月余の同7年3月25日落慶式を挙行する運びとなった。
(木造瓦葺・入母屋流し向拝付・7間4面)


 


善光寺堂

この御堂は、廃仏棄釈のあおりを受けて明治初期廃寺となった旧宮寺
石照院の本地堂を明治24(1891)
年に移築したもので、翌25年信州
善光寺から御分身の一光三尊仏をお迎えし、同27
年尼宮上人を招聘
し盛大な開眼供養法要が営まれた。

以後、当山においては毎年春秋のお彼岸はこの善光堂で法要を勤める
こととなり、ご先祖をはじめ多くの先亡の方々の御回向を行っている。
特に第2次大戦以前は、近郷の善男善女の参詣人が集まり、当寺内の
籠もり所に宿泊し、彼岸期間参拝をされていたようである。




十王堂(閻魔堂)

十王とは、この世でさまざまな罪を犯した人間が冥界に来た時、その
罪を裁判する十人の神のことである。また、俗に言う閻魔大王はその
うちの王様である。(おそらくこの思想は古代インドのヤマ(閻魔)思
想を背景に、古い昔中国で成立発展したものではないだろうか。)

文献によれば、わが国では平安時代後期にもたらされたようで鎌倉時
代に入ってひじょうに発展したらしい。当寺の十王堂は、江戸時代文
政元(1818)
年建立された伊賀地方では珍しいものであったが、老朽化
が激しく昭和55(1980)
再建修復され今日に至っている。
なお、堂内な祀られている十王尊像は江戸中期の享保年間に京都にて
造られている。




山 門

旧山門は、江戸中期正徳4年(1711)福地孫六氏が祖母(法名 躰應院
貞誉寿栄大姉)追善菩提の為
に寄進・建立されたものであった。
しかし、老朽化著しく昭和18
年再建着工し翌19(1944)年4月8日
総本山知恩院門跡 郁芳随圓大僧正をお迎えし落慶法要を厳修した。




梵鐘と鐘楼堂

この建物と梵鐘は、もと穴石神社(現 都美恵神社)の宮寺石照院に所属
したものであったが、老朽化の著しかった当山本来のものに替えて昭和
23(1948)
年3月14日移築したものである。
享保3戌(1718)年3月1日天台僧玄門の鐘銘がある。
玄門は続日本高僧伝に記載あり。天台宗安楽律院派の僧侶。

製作所及び製作者は、近江国蒲生郡八日市釜屋町 堤理庄ェ門家次
(径寸=2尺8寸1分)