徳永寺の縁起
 当寺の創建は明らかではないが、現在の位置から西方およそ500
の所の寺山丘陵地帯に、寺跡と称する所がこの寺のあった所と伝えられ
ている。従って、今の場所に移ってからの中興開山は、永禄・元亀年間
(1558
〜1572年)の頃かと思う。

 中興開山初代の西誉崇徳上人の代、天正7〜9(1579〜1581)年にかけ
て織田信長による伊賀攻略が続き、伊賀全体が瞬く間に壊滅したこと
は、「伊乱記」(約100
年後に伊賀で作られた歴史書)に詳しいが、
当時の合戦の模様を記して、「上柘植の馬宿に火をかけたりと見え、
猛火東西に飛び散り雲と霞と焼き立てて七郷に乱入す云々」とある。


 当時、伊賀の将来展望に立ち、織田信長と同盟を結ぶに至った福地氏
(上柘植在住の伊賀国の有力領主)に深い関係を持つ徳永寺は幸いにも
焼失を免れたのではないだろうか。


 翌天正10(1582)年、信長が本能寺の変に不慮の死を遂げ世の中が騒
然となった折(6月2日)徳川家康が泉州堺より三河(現愛知県岡崎市)
に逃れる途中の6月3日福地氏を中心とする伊賀衆の庇護の下、この
寺に立ち寄り、その後伊勢の白子の浦より船で三河に逃れたと一般に
伝えられている。(通称「神君伊賀越え」)


 当寺の寺伝では、時の住職崇徳上人のもてなしに感じた家康公は、門前
の土地および背後の山林を寺領に認めた書状を下付されたと伝わっている。
この書状は、藤堂氏が伊賀に入国して以降は将軍家に返却し、それ以後
同じ内容を意味する書状を藤堂氏から代々拝領するに至ったようである。


 家康公、最大の危難と言われる「伊賀越え」と徳永寺とのかかわりに
ついては、NHKテレビ『歴史への招待』(S58.1983
年放映)・『その時歴史
は動いた』(H17.2005
年放映)等でも紹介された。