芭蕉と伊賀 -芭蕉生誕360年-
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伊賀上野周辺の史跡
芭蕉翁生家(赤坂町)
釣月軒(赤坂町)
上野天神宮(東町)
蓑虫庵(西日南町)
様々園(玄蕃町)
故郷塚(農人町)
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伊賀上野周辺の史跡
芭蕉翁生家(赤坂町)
芭蕉翁生家
芭蕉翁が生まれた生家は通りに面し、表は格子構えの古い町家で、玄関から奥まで通り土間となっています。芭蕉翁は正保元年(1644)松尾与左衛門の次男としてここで生まれました。芭蕉翁の伝記の中で最も古く信頼される「蕉翁全伝」(宝暦12年(1762)川口竹人稿)に「正保元甲申の年、此国上野の城東赤坂の街に生る…」とあります。また、芭蕉翁が自らしたためた書状などにも上野赤阪町を「ふるさと」とよんでいるのがことからも伊賀上野赤坂町で誕生したと考えられています。
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所在地 : 三重県上野市赤坂町304(近鉄 上野市駅から徒歩10分)
釣月軒/ちょうげつけん(赤坂町)
釣月軒
生家の裏にある釣月軒は芭蕉翁が処女句集「貝おほひ」を執筆したところで、伊賀へ帰省の折には、この建物で起居しました。
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所在地 :三重県上野市赤坂町304 芭蕉生家裏手(近鉄 上野市駅から徒歩10分)
上野天神宮(東町)
芭蕉翁が宗房という号をつかっていた29歳のとき、伊賀の俳諧仲間の句をあつめ「30番句合」をまとめて、「貝おほひ」と名づけ、上野天神宮に奉納しました。
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上野天神宮
所在地 :三重県上野市東町2929(近鉄 上野市駅から徒歩5分)
蓑虫庵/みのむしあん(西日南町)
無名庵、西麓庵、東麓庵、瓢竹庵とともに芭蕉翁五庵のひとつとされていますが、この中で唯一現存するのがこの蓑虫庵。芭蕉翁の門弟服部土芳の草庵で、貞享5年(1688)3月庵開きの祝いとして芭蕉翁が贈った句「みの虫の 音を聞きによ 草の庵」にちなんで名づけられました。土芳はここで芭蕉翁の遺語を集めて「三冊子」を執筆しています。
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蓑虫庵
所在地 :三重県上野市西日南町1820(近鉄 茅町駅から徒歩8分、上野市駅から徒歩15分)
様々園/さまざまえん(玄蕃町)
様々園
侍大将藤堂新七郎家の下屋敷で、貞享5年(1688)3月、帰省中の芭蕉は旧主藤堂新七郎良忠の遺児良長(探丸)から花見の宴に招かれ、ここで芭蕉は「さまざまの事思ひ出す 桜かな」の句を詠み、以後様々園とよばれるようになりました。
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所在地 :上野市玄蕃町 稲毛克巳氏宅(私邸につき未公開)
故郷塚/こきょうづか(農人町)
故郷塚
故郷塚があるのは、遍光山願成寺という真言宗のお寺。松尾家の菩提寺で、愛染明王を安置することから愛染院の名で知られています。
元禄7年(1694)10月12日、芭蕉が旅の途中大坂で亡くなり、なき骸はその夜のうちに門弟たちが淀川を川舟に乗せ大津の義仲寺へと運びました。兄半左衛門のもとにも報せが届き、伊賀上野の門弟 服部土芳(蓑虫庵主)と貝増卓袋が義仲寺へかけつけています。二人は形見に芭蕉の遺髪を持ち帰り松尾家の墓所に納め、後に「故郷塚」が築かれたのでした。
現在の場所(遍光山願成寺境内)に移されたのは芭蕉50回忌の元文3年 (1738)の時と伝えられています。中興期に九州大村藩士長月庵若翁が復旧しました。明治時代の文豪尾崎紅葉、江見水陰らの一行がここを訪れ、記念の写真を残しています。
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所在地 :三重県上野市農人町354(近鉄 上野市駅から徒歩12分。)
俳聖殿/はいせいでん(上野公園)
俳聖殿

芭蕉翁の旅姿をあらわす聖堂で、昭和17年(1942)芭蕉翁誕生300年を記念して故川崎克氏が私費を投じて建設したもの。上の丸い屋根は旅笠、下の八角形の庇は袈裟、それを支える柱は行脚する翁の杖、「俳聖殿」の木額は顔をアレンジしています。
毎年10月12日の芭蕉逝去の日、当俳聖殿前にて上野市主催の芭蕉祭が催されます。
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芭蕉翁瞑想像
堂のなかには芸術院会員長谷川栄作氏が原像をつくり、川崎克氏が焼成した伊賀焼きの芭蕉翁瞑想像が安置しています。
所在地 :三重県上野市丸之内117−4(近鉄 上野市駅より徒歩約5分 上野公園内)
※参考、(財)芭蕉翁顕彰会制作ガイドブック「旅に生き、旅に死んだ漂白の詩人 俳聖芭蕉翁」
 
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