|
 |
 |
HOME
> 伊賀上野芭蕉史跡ガイド > 伊賀街道 |
|
 |
|
 |
■ 伊賀街道 |
伊賀街道は古くは「伊賀越奈良道」と言われ、津から長野峠を越えて、上野、奈良へと続く街道で、東海道のような主要街道ではなく、京、大和、山城方面と伊勢神宮を結ぶ参宮道としての性格を備えた地方路のひとつに過ぎませんでした。しかし、慶長13年(1608年)に藤堂高虎が伊勢・伊賀二国の大名として移封され、津を本城に藩内の約12里(約50キロ)離れた二つの城下を往来する重要な官道として整備されたのが今の「伊賀街道」です。
この街道は、伊賀、伊勢両国の物資や人が行き交う経済生活の大動脈としての重要な役割を担っていました。津方面からは水産物や塩が、伊賀方面からは種油や綿などが津へと運ばれ、その一部は江戸まで船で運ばれていました。このため、街道沿いには伊勢国側に前田宿(後の片田宿)、長野宿、伊賀国側に上阿波宿(後に平松宿)、平田宿があり、宿には公亭とも御茶屋とも呼ばれる藩主の休泊所が設置され、伊賀街道の官道としての性格を物語ります。宿場の西に設けられた火除土手は、津藩の街道の特徴で、かつてはどの宿場にもあったと思われますが、現在は北長野のものが現存するのみです。また、宿場を中心に、多くの文人墨客や俳聖・松尾芭蕉も長野峠越の道を利用し、街道筋にはいくつもの句碑が建てられています。
▼芭蕉と伊賀街道
芭蕉は伊勢神宮参拝で何回も伊賀街道を通りました。また、長野峠では「初時雨 猿も小蓑を ほしげなり」、1688年の「笈の小文」の途中大山田村富永の新大仏寺に立ち寄り「丈六に かげろう高し 石の上」の句を詠んでいます。 |
|
 |
 |
荒木周辺の家並み
(上野市荒木) |
|
|
 |
天満宮東旅所
(上野市車坂町) |
|
|
 |
寺町のまちなみ
(上野市寺町) |
|
|
|
 |
|
 |
|
|
 |
 |
|
 |