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■ 大和街道
島ヶ原(島ヶ原村川南〜山菅) |
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与右衛門坂の名称は、藤堂高虎の通称が与右衛門だったからという説があります。この急坂は「笠置峠か与右衛門坂か、江戸の箱根はなけりゃよい」と里謡に謡われていました。 |
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陸運が今日のように開ける以前、中小河川のかなり上流まで水運が利用されていた。
淀川、木津川の水運は笠置までは無理をせずに上ることができた。慶長8年(1603)大坂、京都(伏見)間の過書船(幕府による通過の許可書を持つ船)が、京都の角倉了以に許可され、以来、やや小型の20石船が笠置まで遡航するようになった。笠置浜では数軒の船問屋、倉庫が軒を並べており、伊賀から米・茶・雑穀・種油・薪炭・竹・材木が流され、笠置からは特に塩が年間3万俵入ったといわれる。
このような笠置の一大物資集散場を一挙に20キロも上流の上野まで遡らせ、展開できるということは人びとの悲願でもあった。この木津川上流への通船の最初は、上野城主筒井定次が角倉了以を招いて舟路を開いたときといわれている。
時代は降り、文化7年(1810)になって、京都の角倉帯刀が、長田川の通船を願い出て許可された。小田領の長田川畔に淀川遡航終点として、船溜りと船積荷物改所、船積問屋ができ、島ヶ原、笠置には船番が置かれた。通船の開始は文化12年(1815)1月19日で、笠置から長田まで水運が開かれた。木津川の通船計画が実地に移されたのは、従来の生産物のほかに、文化期より盛んになった各地の殖産興業で増加した他藩の物資をさばき、流通の増大拡大に応対するためであった。
その後、文化14年(1817)災害のため休船し、嘉永7年(1854)6月13日、伊賀の大地震があり、岩倉峡谷の崩壊により川巾が狭隘となり、船の運航は不可能となった。明治3年(1870)の大洪水で船溜りは埋まってしまい、木津川の舟運に終止符が打たれた。 |
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